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駅伝

駅伝

競技としての最初の駅伝は、東京奠都50周年記念として讀賣新聞社会部長・土岐善麿の発案で同社が主催し[1] 1917年4月27日に行われた「東海道駅伝徒歩競走」とされる
東海道駅伝徒歩競争」の開催にあたり、当時の大日本体育協会副会長および神宮皇學館館長・武田千代三郎が競技名を「駅伝」と名づけた。
Wikipedia 駅伝>歴史

皇學館大学駅伝競走部

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テキスト

全日本大学駅伝>◇5日◇熱田神宮西門前~伊勢神宮内宮宇治橋前(8区間106・8キロ)◇出場27チーム(オープン参加2チーム)◇晴れ、気温12度、湿度64%、北北西の風4メートル(午前8時=名古屋)
 神奈川大が20年ぶり3度目の優勝を果たした。20年東京五輪マラソン代表候補のエース鈴木健吾(4年)が最終8区で首位を走っていた東海大を逆転。5時間12分49秒でゴールテープを切った。10月の出雲駅伝を回避し、主将ながら個人合宿に励んだ異例のローテーションで臨み、東海大青学大の2強とみられた勢力図に風穴をあけた。来年1月2、3日に行われる箱根駅伝は混戦模様となってきた。
 見える背中はどんどん大きくなる。鈴木健は17秒差の2位でタスキを受ける。1分以内なら逆転できる自信があった。今年の箱根駅伝2区で歴代8位の記録で区間賞を獲得した男にとっては、十分すぎる射程圏。東海大の川端を2・5キロ付近で捉えると、5キロすぎから徐々に差を広げた。そこからは1人旅。区間2位、日本人1位となる57分24秒で、両手を広げ、ゴールを駆け抜けた。チームメートから3回胴上げされ「素直にうれしい。仲間がつないでくれた」と笑みを見せた。
 勝つための異例のローテーションだった。6位だった出雲駅伝は出場を回避した。その時、田代マネジャーと2人だけで伊豆大島にいた。12日間の個人合宿。同マネジャーから食事や送迎のサポートを受けながら、450キロを走った。「箱根と全日本でしっかり結果を残すなら、出雲は犠牲にしないといけない」。夏場の走り込み不足で調子が上がらず、大後栄治監督と相談し、導き出された結論。大舞台で勝つ手段とはいえ、3大駅伝初戦を見送るのは葛藤もあった。結果で恩返しするしかなかった。
 3年生から主将の鈴木健を中心にチームは成長を遂げた。5区では越川(2年)が区間賞を獲得するなど5時間12分49秒は、大会記録にあと6秒に迫る歴代2位。古豪復活を印象付けた。97年の優勝も知る大後監督は、当時より純粋な走り込みは「3割少ない」という。減らした分は股関節の柔軟性や体軸の矯正に充てた。「立つ姿勢」も毎朝の練習のうち。耳、肩、くるぶしを一直線で結ぶイメージで立つ。走る前の「歩く」「立つ」という動作も見直した。走るだけの練習では、高速化が顕著な時代に取り残された。小さな積み重ねで低迷を脱した。
 97年に優勝したチームは、翌年の箱根駅伝も制し、2冠を達成した。「ロックオンできた」と鈴木健。19年前の歓喜を再現する。【上田悠太】
https://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/201711060000172.html

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