人の土俵で褌を取る

気になったニュースの備忘録+α

新渡戸稲造

産経ニュース わが心の故郷(みちのく)編

わが心の故郷(みちのく)編(1)

2012.2.14 03:40
■「昔は士(さむらい)といふと、一種の階級であつた。今はさうではない。社会的の階級でなく、頭の階級である」(新渡戸稲造『内観外望』)
《相当な教育を受けたものは、みな士となるものである。学士などは即(すなわ)ち士だ。士格のものである。士は所謂(いわゆる)指導者である。英語でいふリーダーである》
そう、続けられている。新渡戸稲造は日本の精神を世界に伝えた不朽の書『武士道』(原文は英文)の著者。青年のときに立てた、《太平洋の橋になり度(たい)》という志をつらぬいた教育者で農政学者、そして国際政治家だ。
ご存じの方も多いと思うが、新渡戸は盛岡の出身である。彼は晩年、「故郷」についてこう語っている。「吾々は日本に生まれた以上、日本人の皮を着替えるわけにはゆかない。私など、生国を去って勉学に出たのは八歳の時であったが、六十余歳の今日なお東北弁が抜けない」
《「あづま」はみやこびとにとって、優雅なところであり、「みちのく」は日本人にとって、郷土であると言える》
かつて、国文学者の池田弥三郎はそう記した。好例が兵庫・播州出身の柳田国男である。「『神』を目的とした学問」を探求していた彼は、30代半ばで遠野に出会い、以降、この地は日本の民俗学とともに、日本人の心の故郷となった。
東北はまた、代表作の一つ『吉里吉里人』で《俺達(おらだ)の国語ば可愛(めんご)がれ》とつづった井上ひさしの生まれ故郷でもある。これからしばらく、そんな故郷(みちのく)と、それにちなむ人々を紙上で訪ね歩いてみたい。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(2)

2012.2.15 03:09
■「知的好奇心は日本民族の特徴で、この点では私も完全に日本人であった」(新渡戸稲造『幼き日の思い出』)
本項の目的は、日本人の心の故郷(みちのく)を紙上に訪ね、再発見する−というものである。その対象は多岐にわたる予定だが、まずは新渡戸稲造の話からはじめたい。
新渡戸は米国やドイツに留学し、国際連盟の事務局次長を務めた。代表作『武士道』は英文で書かれた。海外在住歴は20年を超える。わが国きっての国際人という印象がある。が、戦前を代表する、ある出版人は、こんな追悼文をささげている。《博士(新渡戸)は強烈なる愛国主義者であり、寧(むし)ろ頑固一徹な古武士的精神主義者であり、国粋趣味の愛好家である事に驚かされない者はない》
新渡戸は文久2(1862)年8月(旧暦)、南部(盛岡)藩の藩士、新渡戸十次郎の三男として生をうけた。新渡戸の自伝によると、父は江戸留守居役も仰せつかった藩の重臣。《彼は完璧な紳士で、あらゆる文武の才芸に精通して》おり、自邸の一角に“無刀流”の素人道場を開いていたという。
新渡戸が父よりも尊崇の念をもっていたのではないか、と思わせるのが祖父、傳(つとう)である。彼は家老と意見が合わず、藩を飛び出たが、一念発起して江戸と故郷を結ぶ材木商に転身し大成功。「旗本株を買わないか」という話は「武士はもうこりごり」と断りながら、南部藩からの帰参要請には応え、ついには勘定奉行に登用されたという、破格の士(さむらい)だった。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(3)

2012.2.16 03:15
■『「急がば回れ」だ。休むなかれ、急ぐなかれ』(新渡戸稲造『編集余録』)
《どれほど自負心があっても、私は自分を良い少年だったとも、賢い少年だったとも主張できない。私は元気いっぱいですばしっこく、口達者。どちらかといえば、甘口のアンファン・テリブル(恐るべき子供)であった》
大和魂を世界に紹介した『武士道』の著者、新渡戸稲造が少年時代を追想した一節だ。彼の記憶によると、5歳のとき、《武士の一員になる儀式》が行われ、彼は脇差しの帯刀を許された。
新渡戸の父、十次郎はこの式を目前にして他界しており、代わりに母のせきが式を執り行った。明治維新の前年にあたる1867年のことであろう。
幕末から維新にいたる過程で、新渡戸家が奉公していた南部(盛岡)藩は逡巡(しゅんじゅん)のすえ、奥羽越列藩同盟に加盟し、維新政府軍と戦う道を選んだ。
《私は、故郷の町が降伏したときのことをよく覚えている》と新渡戸は述懐する。《私の一族は皆この敗北に深く心を痛めた−叔父は殊(こと)にそうであった。祖父は平和な開拓事業に従事していたが、政治闘争の場に引っぱり出され、彼が担当していた地方の戦後処理の交渉に当たらねばならなかった。私の長兄は軽いけがを負って戦争から帰ってきた》
敗戦は新渡戸の身の上に大きな変化をもたらした。明治4年、三男だった新渡戸はこの叔父、太田時敏の養子となり、上京する。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(4)

2012.2.17 03:17
■「わしにはこの孫の将来がみえる。正しく導くことができれば、国の誉れとなろうが、もし誤れば、最悪の悪党となる器の持ち主だ」(新渡戸稲造の祖父、傳(つとう))
〈祖父は事業家で、相応に大きな事業をした。彼は友人や若い者に何時(いつ)も言っていた。「自分は武士であって金は一文も無(な)いが、世の中には腐れ金が沢山ある。それを引き出して天下の為(ため)にしてやるのが大事である」と。其(その)部下が金の心配をすると、「大丈夫。金は此(こ)の中にある」といって頭を指したという〉
新渡戸稲造が祖父、傳を紹介した一節だ。傳は南部(盛岡)藩士から材木商に転じて大成功。その後、藩に帰参し、幕末から維新期にかけては勘定奉行として、また北方の開拓事業の責任者として腕をふるった。孫におとらぬ偉才である。
明治4(1871)年、叔父の太田時敏が9歳の新渡戸を養子とし、上京することになった。冒頭はそのさい、傳が太田(傳の四男にあたる)に少年・稲造の教育方針について書面で伝えたなかの一文である。傳は同じ年、78歳で逝く。
太田はこの“遺訓”に背かなかった。上京後、学校の作文で一等賞を取って有頂天の新渡戸に太田は言った。
「本当にうれしいのか?偉大な賞を志す者は小事で満足してはならぬ。大志を抱け。公的機関の高官となり、名誉の殿堂入りを果たし、偉大な業績を残すのだ。そこを目指すのだ。くだらぬ褒美で喜ぶようでは、わしは情けないぞ」
新渡戸は後年、名著『武士道』をこの「わが愛する叔父」にささげている。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(5)

2012.2.18 03:14
■「日本人から何度いはれても、わからなかつたことが、外国人から教はつて、すぐ覚える。これは何とも不思議でならない」(新渡戸稲造『内観外望』)
明治4(1871)年、のちに『武士道』を著す9歳の新渡戸稲造が、養父で叔父の太田時敏とともに盛岡から上京したとき、困ったのがことばだった。
《日本語で「ち」と「つ」の区別が出来なかつた。いくどいはれても「つ」「ち」といふ音が出ない。また「し」と「す」の音も頗(すこぶ)る難物で、「し」を「す」とばかりいふ。東北では、往昔(むかし)からこの区別をしなかつたらしい》
新渡戸の述懐だ。ところが、である。
《外国人に就(つ)くと、chiが「ち」、tsuが「つ」とすぐ覚えた。洵(まこと)に造作なく覚えた》。冒頭はこの後に続く一文だ。別の回想録にはこんな一節もある。
《ほどなく、概して私同様に東北出身の少年たちは、他の生徒よりはるかに上手に先生のことばを聞き分け、まねることができることに気づいた。これは英語の習得以上に、他の目的にも実用的な価値があった。なぜなら、東北なまりで話すと、情け容赦なくいじめられるので、時には本当に悲しくなり、ホームシックに陥る原因になったからだ》
そんな新渡戸に対し、養父の太田はよくこう言っていた。「勉強を続けるのだ。われわれ東北人も優秀であることを世に示せ。学問は一種のかけだから、失敗することもある。そのときは御者(ぎょしゃ)になれ。鞭(むち)を手に馬車を走らせ、あの高慢な南の奴等(やつら)に道を譲らせるのだ」(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(6)

2012.2.19 03:05
■『ちょっとした誇りと羞恥の心が入り交じった気分のまま告白する。私は少年のときから、「好き嫌い」を超越しようとつとめてきた』(新渡戸稲造『編集余録』)
《嫌いな人に会ったとき、私はわき上がる感情を抑えようと一生懸命になったし、人を好きになったときは、その気持ちを押し殺すよう全力を傾けた》
晩年近く、名著『武士道』の作者、新渡戸稲造はそう冒頭の回想を続けている。「無私と清浄(しょうじょう)の心」というべきか。叔父、太田時敏の養子となり、上京したばかりのころ、こんな逸話がある。
叔父は厳しくとも愛情深い人だった。しかし、上京に前後して太田家に嫁いできた後妻は、《私たち兄弟(稲造と病身の次兄)について、なにかと告げ口し、しばしばまったくの無実であるにもかかわらず、罪を負わせた》という。
そんなとき、新渡戸は、偶然に知り合ったある神職から「人間はだれしも自分自身の光明であって、その光に従って歩めば、だれに何を言われようとも、何でもできる」と聞かされ、感動を覚える。そして、「環境」や「好き嫌い」を超えるためにこの教義を自分流に発展させ、以下の心境に至る。
《疑念が釈明で晴れることは稀(まれ)だし、悪意となると、もう拭(ぬぐ)いきれない。時間のみが解決してくれる。(中略)たとえ無実であろうとも、疑いを受けたという事実そのものが、私の性格にある弱点を証明するものだということが分かり始めた。このような場合の唯一の方策は、釈明することではなく、いかに生きるか、なのだ》(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(7)

2012.2.20 03:18
■「故郷を恋うような、弱い心ではなりませぬ。お前には大事な仕事があります。そのためには強い心をもたなくてはなりませぬ」(新渡戸稲造の母、せき)
《農学校という名ではあるが、その目的は農家の育成ではなく、国家の行政業務に堪えうるよう、若者を訓練することにある。そうすることで、本州からの移住者に新しい土地を提供し、新しい社会を造ることが可能となるのだ》
明治10(1877)年9月、15歳の新渡戸稲造は、札幌農学校(北大の前身)に入学した。右は、明治政府による同校の設立精神を書きとめたもので、《私のなかに生まれた大望にまさにぴったり合っていた》と新渡戸はつづっている。
開拓は新渡戸家の“家業”であった。南部藩士だった祖父、傳(つとう)は数々の開拓事業を手がけたが、なかでも不毛の地とみられていた三本木原の開拓はのちの青森県十和田市発展の基礎をなした、として語り継がれている。
と同時に、《此(この)仕事は人の同情を得ぬのみならず、人の邪魔を受けるものである。親(父の十次郎)の如(ごと)きは、開拓事業が間接の原因となつて非命の死(病没)を遂げた》という痛恨の記憶もあった。新渡戸の志と覚悟がうかがえる。
冒頭は入学のころ、会うことがままならない母、せきが書き送ってきた手紙の一文。《年老いた弱い私でも別離の寂しさに耐えられるのですから、お前も耐えることができるし、耐えねばなりませぬ。しかも明るい心で》と続く。非情である。この母子が生きて再会することはなかった。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(8)

2012.2.21 03:27
■「大学に入つて何の職業に就(つ)いて、何ほどの月給をもらふかなどといふことは、抑々(そもそも)末のことで、もつと大きなところへ到達しなければならない」(新渡戸稲造『内観外望』)
《過酷な気候との不断の闘いはそのまま、北国に住む人びとの社会的・個人的発展を困難にさせる大きな要因である。北国の人びとに愛想のよさや市民生活を送るうえでの楽しみは欠けているとしても、彼らは不屈の精神と自立の精神において、南国の兄弟に優(まさ)っている》
そう記した盛岡出身の新渡戸稲造は東京外国語学校を退学し、明治10(1877)年秋、札幌農学校に2期生として入学した。当時、新渡戸は15歳。実は前年の試験にも合格していたのだが、《最低年齢にまだ二歳足りない》ということで入学が許可されなかった。
実は、明治10年時点でもまだ最低年齢に足らなかった。しかし、《当局者は親切にも私がいったいいくつになるのか数えなかった》のだという。
《近年しばしば大學(だいがく)は職業教育であつては困るといふやうな批評を耳にしたやうだが、日本などは古い頃から、學問は全く一つの職業教育であつた》とは『遠野物語』の柳田国男の評論の一文だが、新渡戸の大学観はちがうようだ。
《大学の教育となつて来ると(中略)単純なる良民といふことだけでなく、良民のリーダースを造るのである》《「教育とは学校で習つたことを悉(ことごと)く忘れた、その後に残つてゐるものをいふのだ」(中略)これは実に穿(うが)つた言葉である》
冒頭を含め、晩年の新渡戸の大学教育論である。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(9)

2012.2.22 03:13
■「若い人たちは、自分たちは絶対年を取らないとでも思っているのだろうか。人生のうち、青春として知られる時期ほど短いものはない」(新渡戸稲造『編集余録』)
《僕は幼年時代より人に逢ふときは、一見してその欠点を発見した。この性質があつたから、大概の人を見ては癪(しゃく)に障り、従つて不愉快を感じた》
50歳のころ、名著『武士道』の著者として国際的に知られ、旧制一高(東大の前身)の校長だった新渡戸稲造はそう述懐している。が、彼が腹を立てていたのは他人に対してだけ、ではなかった。
《是(これ)は為(し)てはならぬと思ふことをなし、考へまじと思ふことを考へ、日に幾度となく、自分が自分の癪に障つた。僕は是は生涯中の最大不幸である、最大欠点であると思ひ、之が矯正に気づいたのは、僕が十六歳の時であつた》
16歳といえば、新渡戸が札幌農学校(北大の前身)に入学した翌年のことである。やはり、「自己矯正」の意味もあったのだろう、この年、彼はキリスト教に入信している。しかし、新渡戸の心にすぐ平穏が訪れたわけではなかった。
「卒業前一、二年の頃より多読の結果思想に動揺を来たし殊(こと)に神学上の懐疑に陥り、憂鬱な人となつてしまひました。同級生はそこで新渡戸君を呼んで『モンク(修道士)』と綽名(あだな)したのであります」
新渡戸の親友の回想である。新渡戸はまた、晩年近く、こんな一節を残している。《今日はささいなことで希望に満ち、明日は同様のことで落ち込む。こうした魂の気候変動は、有為転変の人生の縮図と呼ばれる》(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(10)

2012.2.23 03:11
■「太平洋の橋になり度(たい)と思ひます。日本の思想を外国に伝へ、外国の思想を日本に普及する媒酌になり度のです」(新渡戸稲造『帰雁(きがん)の蘆(あし)』)
明治14(1881)年初夏、19歳を目前にした新渡戸稲造は札幌農学校(のちの北大)を卒業し、北方の発展と国防をになう官庁・開拓使の御用係となった。
「北海道の開拓に尽力したい」
祖父・傳(つとう)ゆずりのそんなパイオニア精神ゆえだったが、新渡戸の親友が執筆した小伝によると、大発生したイナゴ退治に奮闘した以外は《役所に帰れば是と云ふ仕事も無く、自分の好きな英文学書を耽読(たんどく)してゐました》という。
多読がたたったのか、新渡戸は眼病を患い、上京して治療することになった。そうこうしているうちに、官有物払下げ事件という一大疑獄の舞台となった開拓使は廃止された。北海道に戻った新渡戸は母校・札幌農学校で教鞭(きょうべん)をとっていたが、明治16年、一念発起して再上京し、東京大学に入学する。
専攻は英文学や経済学、統計学など。冒頭の有名な一節は、「英文をやっていったい何をするつもりなのか」と担当教授に問われたさい、新渡戸が微笑とともに返した答えである。
ただ、この東大時代も長くはなかった。大望が芽ばえてきたのだ。
《苟(いやし)くも学に志す以上は、自分の知識発展、心の修養、人として己に羞(は)ぢず、(中略)人に卑しめらるゝも神に愛せられんには、第一己を磨かざるべからず、それには広い世界に出なければ、唯々(ただただ)遅れるのみ》(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(11)

2012.2.24 03:07
■「我(わが)国民に一種の道心がある。武士道と名を付けて見た。其(それ)は書物に習はず、謂(い)はゞ以心伝心で今日までも伝(つたわ)つた遺伝的道徳の一大系統である」(新渡戸稲造『帰雁(きがん)の蘆(あし)』)
学問の道を極め、頂点に立ちたいなら日本にいてはだめだ−。明治17(1884)年の夏、東京大学を退学して米国に向かった22歳の新渡戸稲造の心中を簡単に言うと、こういったところだろう。
新渡戸は東部の名門、ジョンズ・ホプキンス大学で経済学や農政、史学を専攻した。苦学もまる3年がたとうとしていたころ、朗報が届いた。母校の札幌農学校(北大の前身)が、彼を助教として迎え入れたうえ、さらに3年間、ドイツで農政学を研究するよう伝えてきたのだ。
渡独した新渡戸は数字と数式を駆使した財政学や応用経済学にのめりこんだ。そんなある日、心中に声が轟(とどろ)いた。
《貴様(きさま)、統計表の紙片や数字の行列にのみ拘泥(こうでい)すると、詩歌の真味や芸術の巧妙、宗教の観念や人生の深意は悉(ことごと)く貴様を棄て去るぞ、(中略)貴様は血も肉も無い算盤珠(そろばんだま)の骸骨に化するぞ》
もっとも、この天啓に覚醒して以降、数字に縁遠くなりすぎたのか、後年、新渡戸の敬愛する後藤新平は彼に計算だけは任さず、《甚だしきは最も簡単なる寄せ算、引き算についても(中略)決してわが輩のいふことを信じなかつた》。
留学中の逸話をもう一つ。冒頭は、「学校で道徳や倫理を教えられないのになぜ、日本人は善悪の区別や廉恥を知っているのか」という、ある大学者の問いを数年間考え続けた末、新渡戸が至った結論である。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(12)

2012.2.25 03:13
■「ラヴと云ふ言葉にピツタリ当嵌(あては)まるものはないかも知れないが、誠といふ言葉には、英語のラヴも、何もかも含まれてゐるやうである」(新渡戸稲造『西洋の事情と思想』)
《正直に告白すると、名誉をむさぼる心は、二十歳から三十歳の間で、火の如(ごと)く燃えて青年に最も強いといはれる恋愛の念までも、この名誉心、功名心のために弱まつた程である》(『人生読本』)
新渡戸稲造が晩年につづったエッセーの一文だ。20歳から30歳の間というのは、新渡戸が東大を退学し、米国とドイツに長期留学していた時期と重なる。
この間、長兄が病死したため新渡戸は叔父の太田時敏との養子縁組を解消し、新渡戸家を継いだ。また、27歳のときには、独東部のハレ大学で博士号を授与されている。環境もまた、新渡戸を名誉と功名に駆り立てていた。
《なにがひとの魂を満たすのだろう。名誉を与えられても、それは空虚なものであることがわかってしまう。富を与えられたとて、飽きてしまう。知識を与えられると、さらに欲しくなる。
ただ愛、純粋で無私の愛だけが、この永遠の疑問に答え、この無限の渇望を満たしてくれるのである》(『編集余録』)
こちらも晩年に新渡戸がしるした一文なのだが、彼はそう年をとらないうちにこの崇高な心境に至ったにちがいない。明治24(1891)年の元日、数え年30の新渡戸は数年来の知己の米国人女性、メアリー・エルキントンと結婚した。「だれよりも理解する力をもつ人」という最高の伴侶との人生の始まりだった。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(13)

2012.2.26 03:12
■「惨酷を意味する現今のムゴイが、愛らしいのメゴイと元一つの言葉であつたことだけは、大抵疑ひが無いと思ふ」(柳田国男『方言と昔』)
前回、『武士道』の著者、新渡戸稲造がふれた「愛」について余談を少々。『遠野物語』の著者で日本の民俗学の祖、柳田国男は冒頭の一文を次のように継いでいる。《それはあたかも「可愛(かわい)い」といふ語が僅か形を変へて、「可愛さう」となれば、(中略)乞食(こじき)にまで及ぶのと同じである。/つまり愛と憐(あわ)れみとは、一つの感動の分化であつた》
この説をとるのは柳田だけではない。文豪、幸田露伴は娘の文(あや)に「かわいい、という意味の『め(愛)ぐし』は『むごし』や『あはれ』の心と相通じるのだ」と伝えた。そうして文は、「愛」ということばの奥深さを知る。
さて柳田によると、この深遠なことばの豊かな実例は、東北だった。彼は著作『蝸牛考(かぎゅうこう)』に記している。《福島県でも相馬郡のムゴイ・ムゴシイは「可愛い」に該当し、石城(いわき)郡のムゴイは「可愛さうな」の方であり、阿武隈川流域にはメンゴエの「愛らしい」が盛んに用ゐられて、しかも一方にはモゴサイといふ語を「可愛さうな」の意味に使つて居る》
ここで新渡戸の「愛」にもどろう。以下は新渡戸がつづった愛の実例である。
《赤ん坊をあやす母の輝く瞳や幼児のおぼつかない言葉。また、通りすがりの見知らぬ人が浮かべる微笑や、苦悩する英雄のやさしきため息。こうしたもののなかにわれわれは愛の存在を感じることができる》(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(14)

2012.2.27 03:32
■「数世紀の試練を乗り越えた書物のなかに我々は、困窮における富、悲しみにおける歓喜、そして孤独における絆を見いだすのである」(新渡戸稲造『編集余録』)
《三十五歳という男盛り、または人生の半ばにあるとき、私は重病となった》
新渡戸稲造はそう述懐している。診断は「強度の神経衰弱症」。明治30(1897)年のことだった。
ドイツ・米国留学から帰国したのは6年前。以来、新渡戸は母校の札幌農学校(北大の前身)教授として農政や経済学を講義する一方、学校予科主任や教務部長、北海道庁技師として道の発展に邁進(まいしん)、さらには、無料の夜学校の設立と運営にも尽力してきた。またこの間、生まれたばかりの長男を失っている。心身ともに負担は限界を超えていたのだろう。
新渡戸は当初、国内で療養していた。しかし、「治療は長期化する。できるなら日本を離れて気楽に暮らせるところで静養したほうがよい」という主治医の意見をいれ、札幌農学校を退職し、米国で転地療養を施すことになった。
《私はなぜすすり泣かねばならないのだ?私は人生をまことに堅実に旅してきたし、すでにその折り返し点にいるではないか。たとえ精力的に働くことができなくとも、崇高な思索にふけることはできる。病床を瞑想(めいそう)の場とするのだ》
新渡戸はそう考えるようになった。そしてこの機会に、日本の正邪善悪の道徳概念を説き明かそうと思い、著述をはじめた。くしくも冒頭の一文(一部省略)を体現する書『武士道』の誕生である。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(15)

2012.2.28 03:22
■「ところで、武士道とはどんなものかといへば、要するに、その根本は恥を知る、廉恥(れんち)を重んずるといふことではないかと思ふ」(新渡戸稲造『内観外望』)
新渡戸稲造が不朽の名著『武士道』を書き上げたのは、明治32(1899)年末。《過去を尊崇すること/サムライの数々の偉業を敬うことを私に教えてくれた/わが愛する叔父/太田時敏に/この小著を/ささぐ》と献辞にある。強度の神経衰弱を病んだ彼は、2年ほど前から米国を訪れており、当時、新渡戸は東部ペンシルベニア州の転地療養先にいた。
《武士道は最初、エリートの栄誉として始まったが、やがて国民全体の大望とインスピレーションとなった。庶民がこの崇高な道徳精神の頂点をきわめることはなかったけれども、「大和魂」は、島皇国の民族(フォルクス)精神(ガイスト)をうたうに至った》
『武士道』の後半にある一節だ。
ならば武士道の精神とはいったい何なのか。《武士道の全ての教えは自己犠牲の精神によって完全にみたされている》と『武士道』には記されている。
一方、冒頭は『武士道』執筆から約30年後の一節である。武士道に対する新渡戸の考えは少しずつ新しさを加え、また洗練されていったようだ。明治の末年、彼はこうもつづっている。
《武士道の特性は物のあはれを知ることである。あはれを知るといふのは、世の無常を悟り、悲哀を感ずることである。(中略)人の苦を見て、ああさぞ苦しからうと思ひ、弱(よわき)を扶(たす)けるとか、義を守るとかいふのも、総(すべ)て物のあはれを知るからである》(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(16)

2012.2.29 03:00
■「これ等(ら)の道徳が中庸に止れば武士道で、極端に走れば即(すなわ)ち天狗道(てんぐどう)である」(柳田国男『妖怪談義』)
前回のテーマ「武士道」の続きである。
日本の民俗学の祖、柳田国男によれば《元来天狗といふものは神の中の武人であります》。また、冒頭の一文にいう「これ等の道徳」については、こう解説している。《即ち第一には清浄(しょうじょう)を愛する風である、第二には執着の強いことである、第三には復讐(ふくしゅう)を好む風である、第四には任侠(にんきょう)の気質である。儒教で染返さぬ武士道はつまりこれである》
この解釈は新渡戸稲造に通じる。彼は名著『武士道』を出版してまもないころ《単純な神道の自然崇拝と祖先崇拝が武士道の基礎であって、中国の哲学やヒンドゥの宗教から借りたところは、その花であった−いな、(中略)花開く養いとなる肥料の働きをした−と信じたい気がつよくする》とつづっている。
新渡戸の『武士道』は米国の第26代大統領、セオドア・ルーズベルトをも感動させた。彼は、原文が英文のこの本を60部買い求めて家族や知人に配ったさい、子供たちにこう言ったという。「熟読しなさい。でも一つだけ注意がある。書中に『君公に忠』『帝王に忠』とあったら『君公』『帝王』という文字を消して、『米国旗』と書き入れなさい」
「私の直感では、アングロ・サクソンの思想は武士道が涵養(かんよう)した考えと合致する」−。早大の祖、大隈重信は新渡戸にそう語っていた。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(17)

2012.3.1 03:34
■「実情を視察すればするごとに眼が痩せて来る。人はこれを実際論といふか知らぬが、われわれの望むところは君の理想論である」(児玉源太郎)
人間の一生には四季がある、という。
新渡戸稲造を例にとれば、故郷・盛岡を出て養父とともに上京、明治10(1877)年に15歳で札幌農学校に入学したあたりまでは「春」。その後、米独に留学、帰国後は母校を拠点に教育に邁進(まいしん)するが、体をこわし、米国での転地療養中に名著『武士道』を書き上げた1900年ごろまでが「夏」といえようか。
以降、新渡戸の人生は四半世紀にわたる「実りの秋」に入る。彼は台湾総督府で発展の礎をきずき、旧制一高の校長や東京女子大の初代学長、国際連盟の事務局次長などを歴任するのだ。
この間、彼はさまざまな史上の人物に出会い、そのうち何人かを、上司と仰いで仕えることになる。日本陸軍の偉才、児玉源太郎もその一人だった。
児玉に対して抱いていた新渡戸の印象はよくなかった。明治20年代後半のことだろう、児玉が陸軍次官として衆議院で答弁しているのを聴いていて、「なんとずるい人だろう」と思った、という。
その児玉が台湾総督に就任し、一面識もない新渡戸を起用するという。迷ったすえに、新渡戸は台湾行きを決める。
着任早々、新渡戸は児玉に驚かされる。それが、「君が海外にあって進んだ文化を見て、その眼のまだ肥えている中に、理想的議論を聴きたい」と言ったあとに続けた、常識を逆手に取った冒頭の指示だった。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(18)

2012.3.2 03:32
■「人間の伸々(のびのび)するのは、頭で伸びるのではない。肚(はら)で伸びるのである。この肚に温か味があつて、始めて人間が伸びる」(新渡戸稲造『内観外望』)
『武士道』の新渡戸稲造が描いた日本陸軍の偉才、児玉源太郎の話をもう少々。
新渡戸によると、児玉は《頗(すこぶ)る脳の働きの電光石火の如(ごと)き人》で、《その動き方が全身に現れ殊(こと)に彼の眼の鋭いこと、人を射る如き光りは、われわれの稀(まれ)に見る所である》。しかし児玉は“頭だけ”の人物ではなかった。
《エー・ビー・シーの心得もないほど西洋語は不案内であつたけれども、外国人に逢ふても更(さら)に引けをとらない。通訳者を傍(かたわら)に置いて話すのを聞くと、邦人と逢ふて話す如く、何の隔意もなく冗談を云ふたり、要談をするにも滞りがなかつた。それは何故(なにゆえ)かと云ふと、将軍(児玉のこと)の心に蟠(わだかまり)がないからである》
冒頭は、晩年の新渡戸のことばなのだが、すでに亡くなって久しかった児玉のことが頭にあったのではないか。児玉の「肚の温か味」について新渡戸はこんな逸話も伝えている。
〈私の旧主筋である南部家の若伯爵が日露戦争に出征したさい、「ロシア兵が自分の骸(むくろ)を見たとき、日本の軍人として恥ずかしくなくしておきたい」と言って剃刀(かみそり)と香水一瓶を求めた−といった話を児玉大将にしたことがある。その間児玉大将は大きな眼からダラダラ涙が流れるのを拭おうともせず、軍服がビッシヨリぬれるのも構わなかつた。天真爛漫(てんしんらんまん)とはかくの如きを形容するものならん〉(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(19)

2012.3.3 03:29
■「いつか死ぬまでには慈善の大事業を開きたい」(後藤新平)
『武士道』の著者、新渡戸稲造は台湾総督府勤務時代に“生涯の畏友”と出会う。総督府民政長官の後藤新平。新渡戸にとって直属の上司であった。
《「(前略)今まだ小役人であるが必ず頭を上げるだらうと思ふ、医者の出で後藤新平といふ、何(な)んでも君の県の男ぢやないか」/これが後藤伯(爵)の名を聞いた初めである。同県人とはいひながらわが輩は南部藩の盛岡、彼は仙台藩の水沢であつて、彼もわが輩を知つてゐるはずがない》。明治10年代半ばのころであろうか、新渡戸は旧友とそんな会話を交わしたことがあったという。
《最も敬服した一事は、事を起す前に、新人といふべきか、未(いま)だ試験を終らず、世に知られてない未知数の人を捜し求めて、仕事に当らしめることに心懸(こころが)けてゐた一点である。自分自(みず)から、長い間埋木(うもれぎ)の経験をなめてゐただけあつて、常に隠れたる人物を訪ねてをつた》
新渡戸の後藤評である。また後藤は、《生来多感の人で、涙に頗(すこぶ)るもろい人であつた。話のみを聞けば如何(いか)にも強さうで、折には残酷かとも思はれる節もあつたけれども、その行(おこない)においては失敗者でも前科者でも悔改(くいあらた)めて来たる者には、更(さら)にこれを拒む風はなかつた》という。
冒頭はそんな後藤が新渡戸に語った「生涯の事業」。“大風呂敷”と呼ばれた風雲児の、意外な一面である。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(20)

2012.3.4 03:06
■「父は放胆な男で、「何所(どこ)で野垂死(のたれじに)しても構うことはない、なんでもいいから思い切ったことをやれ」ということを始終聞かせてくれた」(伊藤博文)
人生のなかの「実りの秋」に入った、40〜50代の新渡戸稲造が出会い、横顔を書きとめた日本史上の人物についての話をもう少し続けてゆきたい。
初代内閣総理大臣の伊藤博文が尊敬する人物が、松下村塾の師、吉田松陰や兄貴分だった高杉晋作ではなく、歴史的には無名だった自分の両親だったことを明らかにしたのは、新渡戸の筆だった。
父を語る伊藤は、新渡戸を前に冒頭のように回想したあと、ことばを重ねた。「母は父とは全然反対で、まことに心配性な気の小さい女性であって、寒さがしてもすぐ風邪をひきはせぬか、外に出れば帰るを待つ、というような性格であった。この二つの性質が自分にそのまま、今日も染み込んでおる」
こんな逸話もある。
伊藤の韓国統監時代、新渡戸は日本人の農業従事者を朝鮮半島に移住させるよう勧めたことがあった。「朝鮮は朝鮮人のためのものだ」という持論を譲らない伊藤を“懐柔”しようとする中央政府の意向を受けたものだったのだが、伊藤は新渡戸に対してこう力説したという。
「君、朝鮮人はえらいよ、この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遙(はるか)以上であった時代もある。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。然(しか)るに今日の有様(ありさま)になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ」(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(21)

2012.3.5 03:09
■「めにみえぬ神のこころにかよふこそ人の心のまことなりけれ」(明治天皇)
不朽の名著『武士道』の作者、新渡戸稲造は、明治天皇との絆を強く感じていた。たとえば明治9(1876)年の初夏、明治天皇が初めて東北巡幸を行い、三本木原(現在の青森県十和田市)を来訪したさいに宿舎に選んだのは、この地方の開拓に尽くし、5年前に亡くなった新渡戸の祖父、傳(つとう)が住んだ家だった。
後年、新渡戸はつづっている。
《私は東京にいた。あらゆる新聞が私たちの家に天皇がお寄りになられたことを報じた時、私は自分の家族の歴史と、私を将来待ち受けている責任の崇高さを感じ、天にものぼる思いだった》
新渡戸は、誠(彼は英語の「愛(ラブ)」の真意をこのことばにみた)や平和、人生訓を語るとき、明治天皇の和歌を引いた。冒頭はその一例。ほかに《よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ》《なにごともおもふがままにならざるがかへりて人の身のためにこそ》などの歌を随所に引用している。
明治天皇は新渡戸にとって「至誠の帝」だった。彼の回想によれば明治43年に大逆事件が発覚したさい、辞表を出そうとする首相、桂太郎に明治天皇は言った。
「もし自分に神徳の備わってあるものならこんなことはあるべきはずがない。しかるにかくの如(ごと)きことのあるのは、自分が神徳を未(いま)だ完(まっと)うしないからだ。ゆえに出来るだけ法律の許す限り、罰を軽くせよ」(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(22)

2012.3.6 03:10
■「私は外国人の交際振(ぶり)を見る毎に、日本人が交際の術の拙(つたな)いことを嘆かないことはありません」(乃木希典(のぎ・まれすけ))
盛岡(南部)藩出身で名著『武士道』の著者、新渡戸稲造は、長州藩出身の陸軍大将で、日露戦争後、学習院長となった乃木希典と浅からぬ縁があった。
初対面は明治30年代半ば、新渡戸が台湾総督府の高官だったころ。彼の事務室に乃木が突然来訪し、「礼儀正しく、温味(あたたかみ)のある挨拶(あいさつ)」とともに、乃木の盟友で彼の後任の台湾総督だった児玉源太郎のことを「何卒(なにとぞ)助けてやってください」と頼んで帰っていったという。
そして明治40年代初めごろ、旧制第一高校長だった新渡戸は、学習院長の乃木の招きで学習院の同窓会大会で講演し、《学問の目的は知識にあらずして、人物の陶冶(とうや)にあ》り、《殊(こと)に社会の上流にある者は、茲(ここ)に意を注ぐべきを力説した》。
当時、学習院中等科に在籍していた近衛文麿が《あれくらゐ感動したことはなかった》と回想した名演説だった。乃木は壇上に赴き、新渡戸の右手をかたく握って言った。「私自身がかねがね言いたいと思っていることを悉(ことごと)くお述べくださり、返す返すもお礼を申し上げます」
冒頭は、「いつも紳士だった」という乃木があるパーティーで新渡戸にささやいたことば。「殊に私達の仲間(軍人)には、その方面に無頓着の者が多くて困ります。戦時の心掛(こころがけ)は結構ですが、平時、親交国の人に武装してかかるのは感服出来ません」と笑いながら続けたという。(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(23)

2012.3.7 03:28
■「かたらじとおもふこゝろもさやかなる月にはえこそかくさざりけれ」(乃木希典(のぎ・まれすけ))
明治天皇の大喪がとり行われた大正元(1912)年9月、学習院長の陸軍大将、乃木希典が自刃した。内外に波紋を広げたこの殉死について乃木の最も誠実な代弁者となったのが、自殺を禁じられたクリスチャンで、旧制第一高校の校長を務めていた新渡戸稲造だった。
《自殺の宗教的さらには道徳的な正当化を主張するものと私を理解してほしくない。しかし、名誉を崇高なものとする価値観は、多くの者にとって自己の生命を絶つさいにあまりある根拠となった》
1900年に発表された『武士道』のなかで、新渡戸が切腹を解説した一節である。そして12年後、乃木の殉死について新渡戸はこう論じた。《私はあらゆる方面によい影響を及ぼすだらうと思ふ。但(ただ)し之(これ)は乃木さんの心事を明(あきら)かにすればの話で、(中略)私は何処(どこ)までも自分一人の皎潔(こうけつ)な心事から起つた事で、万乗の君に対して済(す)まない、部下のものに対して済まなかつたといふ、義務の観念、責任の観念から起つたものと信ずる》
この文章でも新渡戸は《勿論(もちろん)私は決して自殺を奨励するのではない》と強調し、その上で次のように結んでいる。
《武士道といふものを斯(こ)う考へて居る。アレは世界的のものでない。一国の道徳である。(中略)此(この)限りある範囲の武士道といふものから見ては乃木さんの死は実に一分の余地も残さぬ実に立派なものと思ふ》(文化部編集委員関厚夫)

わが心の故郷(みちのく)編(24)

2012.3.8 03:14
■「知性でなく品性が、頭脳でなく魂が研究され、はぐくまれてゆく対象として選ばれるとき、教師の職業は聖職としての一歩を踏み出す」(新渡戸稲造『武士道』)
新渡戸稲造は、のべ四半世紀にわたって教師だった。旧制第一高校の校長となったのは明治39(1906)年。その在任期間は約7年間におよんだ。
《時には随分失礼な諧謔(かいぎゃく)や逆襲を敢(あえ)てしたのであったが、寛宏な先生はクックッと笑ひながらよく東北なまりで、ブチヨク(侮辱)だな、と仰せられた(中略)あのくらゐ城壁を撤して心から後輩門弟と談笑せられた人は他に類例を見ない》
ある卒業生の回想だ。一方で新渡戸は夢の中にあっても「3つの精神」で生徒たちに接し、それらを伝えようとした。
その第一は、《忠君愛国。言葉ではない。その精神を日常生活にあらはすといふ事である。口で忠々(ちゅうちゅう)いふのは雀(スズメ)か鼠(ネズミ)かと古人も言ってる》。第二に《一(ひとつ)の型にはめると云ふことは最も教育の本旨にもとって居る》ということ。最後に《品行よりも品格といふ事》だった。
そして、離任のときがきた。
「我輩(わがはい)は策略を知らぬ男である。何もかも打ち明けて諸君に接して来た。(中略)何故(なぜ)か未(いま)だに理由はわからないけれども、世間の人々が我輩に人身攻撃を加え、果ては諸君と我輩とを離間しようとさえした事を確かに聞いているが、諸君がそれにも拘(かかわ)らず常に我輩を助けてくれた其(そ)の厚意は、不肖死すとも忘れない」
離任演説の最後半である。新渡戸の声は震え、生徒で満員の会場は涙につつまれたという。(文化部編集委員関厚夫)