人の土俵で褌を取る

気になったニュースの備忘録+α

子供の頃の記憶をどこまで遡れるか

どっちが先なのか後なのか年代が曖昧なので列挙する。
昔の百姓家では毎日夕方になると雨戸を閉めていた。お袋が雨戸を閉めようとしている背中におんぶ紐でおぶさってねんねこで覆われていた記憶があるがそれが何歳の時かは分からない。ただお袋が雨戸を戸袋から抜こうとするとおぶさっている自分が遠心力で外側に振られる。それが気持良くもっとやってとせがみ喜んでいた。と言うことは言葉は話せたということになる。
寝る時にお袋のおっぱいを触っていた。でも乳は飲んでいない。お袋の乳首の形の記憶がある。それが何歳の時かは分からない。
次の記憶は幼稚園入園のために検査と知能テストを受けたことを覚えている。
ひょっとしたらこれが一番古い記憶かもしれない。知能テストは幾何学模様の板パズルで簡単な問題だっただろうが出来なかった。入園して先生に酷い目にもあった。私は大人しくいたずらをするような子ではなかったので原因が分からないが、とにかく私の両耳を持って持ち上げられ怒られた記憶が残っている。何を怒られているのかは記憶に無い。これが一度や二度ではない。私の顔や雰囲気は相手に不愉快を与えるようなことは無いと思う。松坂屋の絵を描いた時のことだ。先生に「窓はこんな風になっていない」と酷く怒られた。
余程幼稚園が厭だったのかお宮さんで隠れていたことがあったとお袋に聞かされたことがあった。でもそれもおかしい。と言うのはその幼稚園は親や引率する先生は付かず徒歩で数人が分団登園していた。その分団の出発地が一年上の子の家の前で、隠れていたというお宮さんの次ぐ近くだから分団から逃げ出すことができるだろうか。登園してきた分団に私が居ないなれば幼稚園も親も大騒ぎになるだろうし、他の子も放って置いて行ってしまうとも思えない。それに昭和34年には伊勢湾台風が来てそれまでのお宮さんが壊れてしまっている。さっきの隠れていたと言うお宮さんはここではなく今現存しているお宮さんの場所に変わっている。
昭和34年と言うのは私が年長組の時で直ぐに新しくお宮さんができたとは考えられない。と言うことは私が未だ出来てもいないお宮さんに隠れていたと言うのはありえない事で、お袋の記憶違いかからかった何かの比喩だったのかもしれない。
伊勢湾台風の時の記憶もその後の配給が来る時にそれを知らせる太鼓が鳴っていた記憶も、配給物資のジャンパーの柄の記憶もある。この時缶詰の焼き飯を初めて食べたがこれはご飯自体が不味かった。
普通、缶詰と言う物は全部と言っていい程に美味しく出来ているがこれは・・・
昭和35年小学校に上がり一年の担任も女の先生だった。この人も怖い先生だった。給食を残すことを許さない。食べ終わるまで許してくれない。次の授業が始まっても許してくれない。私はどうしても食べることができないのだ。人間は雑食に進化し何でも食べることができる筈なんだが、私にとってそれは食べ物ではなく毒物に等しく無理に食べると吐き戻してしまう。それは恥ずかしいしその後片付けもさせられるので少しずつでも涙目で食べ続ける。何度も熱を出し学校を休んだこともあったと後でお袋に聞いたことがある。この時も理不尽なことで馬鹿にされ怒られたことがあった。先生は「三人家族の人は?」「四人家族の人は?」と皆に聞いて行く。私の家族は祖母、父親、母、叔父、自分、(妹はこの年の九月に産まれる)の五人家族だから「五人家族の人は?」の時に手を上げたが違っていたらしい。皆の前で馬鹿にされ凄く怒られ罵られた。幼稚園の時もこの時もお袋は一応どのようなことか先生に尋ねたようだがこの件でお袋から何かを聞いた記憶は無い。私に否があったのだろうか。昔の学校の先生というものは絶対という所があってクレームが言えなかったのかもしれない。親父は子供の事には全く無関心でお袋がこのことを親父に相談しているとはとても思えない。それはその当時でさえ分かっていた。年に何度もお袋が殺されるかもしれないと思えるような夫婦喧嘩をしていた。あれは夫婦喧嘩だったのだろうか今となっては分からない。
何なんだこれらの記憶は。どういう事だったんだ。
話を戻す。幼稚園の先生もこの小学一年生の時の先生も名前は分かっている。
この先生の名前は・・・・
恐ろしいね、まさかこのようなネットの時代が来るとは。