人の土俵で褌を取る

気になったニュースの備忘録+α

北原佐和子

<生きる 支える 心あわせて>俳優と介護職と(上)

http://img.atwikiimg.com/www45.atwiki.jp/jippensha/attach/57/5080/71_%E5%8C%97%E5%8E%9F%E4%BD%90%E5%92%8C%E5%AD%90.jpg
「今日も元気でいきましょう!」。デイサービスのレクリエーションを巧みな話術とアクションでリードする北原佐和子さん=千葉県船橋市の学研ココファン西船橋

サイドヘアを外巻きカールにした女の子が、正方形の写真の中で愛らしく小首をかしげている。
「一九八二年に私、歌手デビューしました。これがレコードジャケットの写真。ですが、本当は歌は得意じゃなかったんです」
千葉県船橋市のデイサービス施設。集まった二十人余の高齢者を前に、オレンジのポロシャツを着た北原佐和子さん(52)が、投影機を使って自己紹介を始めた。
元アイドルで現役俳優、そして介護福祉士。この日は、レクリエーションを担当した。前半は、時代劇で共演した大物俳優との裏話を織り交ぜながら、互いの思い出を語り合うことで脳を刺激する「回想法」を実践。後半は手ぬぐいを使った体操を指導した。細い体でクルクルと動き回る。アイドル時代と変わらない大きな瞳もクルクル。「話や体操の進行が上手。楽しかったあ」。利用者の金子アイさん(85)はほほ笑んだ。
埼玉県でサラリーマン家庭に育つ。三人きょうだいの一番上。気持ちも体も弱い子だったが、両親は厳しく「抱き締められた記憶もありません」。家庭に居場所が見つけられない中、高一の時、友人と応募したティーン雑誌の読者モデルに選ばれ、芸能事務所入り。同僚の女の子三人でアイドルグループを結成してから人気に火が付き、十八歳でソロレコードデビューすると、CMの契約申し込みが三十本近く殺到した。
「大人たちが全部お膳立てをして、運転手付きの車で仕事に行く。有頂天でした。ただ、歌や芝居をきちんと習ったわけでなく、自分に中身がないのを知っていたから怖くもありました」
不安は間もなく現実になる。人気に陰りが見え始めると「周囲の人たちがスーッと離れ」、三年後にレコード会社との契約も切れた。テレビドラマなどの俳優業は続けたが、一つの仕事が終わると次が確実にあるか分からない。休業期間が二~三カ月に及ぶことも。
日本舞踊や華道、陶芸など趣味を広げたが、満たされない。「ほかにするべきことは」。自問を続けた。
二十代後半になったある雨の日。東京都内にマイカーで出掛け、運転席で待ち合わせの友人を待っていると、サイドウインドーの向こうを、手足をこわばらせて歩く若い男性の姿が目に入った。「脳性まひの人かな」。傘を差しているが、手が不自由なため、体はずぶぬれだ。
「あのっ」。何かに突き動かされ、ドアを開けると声を掛けた。「良かったら乗ってください」。待ち合わせの友人をほったらかしにして、十五分ほどの距離を自宅まで送り届けた。
子どものころから、駅の切符売り場の辺りで困っている高齢者や障害者を見かけると、どうにも気になって仕方なかった。このときは、勇気を持って行動できたことに自分でも驚いた。
「俳優と福祉の仕事との両立ができたら」-。華やかな芸能界にいながら、常に感じていた心の隙間を、その道を思い付いて少し埋められそうな気がした。
ただ、どうしたら福祉の仕事に就けるのか。当時は年齢相応の役をこなしながら、徐々に俳優としての地歩を固めていた。また、結婚・離婚といった私事も重なって、いつしか頭の中の「福祉」の存在は中ぶらりんに。そんな状態が十年ほど続いたころ、たまたま、自宅近くの障害者施設の交流祭に出向いたのを機に意を決した。
「ここで働かせてもらえませんか」
(白鳥龍也)
TITLE:<生きる 支える 心あわせて>俳優と介護職と(上):暮らし:中日新聞(CHUNICHI Web)
URL:http://www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2016113002000004.html
2016年11月30日

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ニコラス・ウィントン

ニコラス・ウィントン
ロンドン郊外の美しい町に住むグレタ・ウィントンさんが、夫ニコラスさんの重大な秘密に気づいたのは、結婚して四十年もたってからだった。屋根裏で夫の過去の行いを物語る驚くべき書類を見つけたのだ
▼その秘密が公にされると、世界中から「あなたこそ、私の父だ」と名乗りを上げる人が現れ、その数は二百人を超えた。「あなたは、私の祖父だ」という人まで現れて、夫妻を驚かせた
▼一九三八年、ナチスの脅威が迫る中、チェコスロバキアを訪れたニコラスさんは、ユダヤ人難民らの姿に衝撃を受けた。各国とも難民受け入れに消極的だったが、彼は「せめて子どもたちだけでも」と里親を探して、六百六十九人の子どもたちを英国に脱出させた
▼しかし戦後、ニコラスさんは、救い切れなかった無数の命を思い、自らの英雄的な行いについて、口をつぐんだ。妻にさえ打ち明けなかった。その理由を問われれば、英国紳士らしくユーモアを交え答えた。「夫が妻に言わないことなど、たくさんあるよ」
▼昨年百六歳で逝った彼と、彼を父と慕う子らの姿を描いた映画『ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち』がきょう、名古屋などで公開される
▼映画はこんな字幕で始まる。<世の中には、観客として見るだけでなく、自身が主人公となる物語もあります>。「戦争と平和」とは、そういう物語なのだろう。
中日春秋(朝刊コラム):中日新聞(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2016112602000115.html
2016年11月26日中日春秋

ニコラス・ウィントン イギリスのシンドラー
ニコラス・ウィントン - Wikipedia
去年2015年7月1日に亡くなっている。報道もされただろうに私は何を見ていたのか。


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吉田正己さん

軍紀に反し市民逃がす大垣空襲で元少年兵が証言

http://img.atwikiimg.com/www45.atwiki.jp/jippensha/attach/57/5074/67_%E5%90%89%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%B7%B1%E3%81%95%E3%82%93.jpg
71年前の大垣空襲で「軍紀に反して市民を逃がした」と証言する吉田正己さん=岐阜県大垣市
写真

太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年七月二十九日に岐阜県大垣市であった「大垣空襲」で、市民に消火を命じる任務だった元少年兵の吉田正己さん(87)=同市=が本紙の取材に「軍紀に反して『とにかく逃げろ』と市民を避難させた。同僚も同じことをした」と証言した。大垣空襲の犠牲者は五十人で、他都市の空襲に比べて極端に少なく、研究者らの間で注目されている。逃げ惑う市民を少年兵らが避難させた事実が、被害拡大を防ぐ一因だったことが浮かび上がった。
戦時中の「防空法」が空襲の際、都市からの退去禁止と消火を国民に義務づけていたことが、人的被害を大きくした要因と考えられている。陸軍二等兵だった吉田さんは空襲時、道路に非常線を張り、逃げる住民を押し戻す任務に就いた。
吉田さんは、大垣空襲の直前の七月九日に岐阜市であった空襲で、大垣市から出動。焼夷(しょうい)弾のすさまじい炎で焼かれる街を目の当たりにし「(はたきのような)火たたきやバケツリレーで火を消せるわけがない。機関銃に竹やりで挑むのと同じだ」と感じた。
市民を逃がすのは命令違反で、軍法会議にかけられる恐れがあると分かっていた。だが、八百数十人の犠牲者を出した岐阜空襲を目撃した大垣の少年兵らは「地元が空襲に遭ったら一人でも多くの人を逃がそうと考えるようになった」と話す。
大垣空襲で、吉田さんの部隊は市中心部の郭(くるわ)町の十字路で非常線を張ったが、逃げてくる人々に「とにかく南へ逃げろ」と避難させた。吉田さんの知る限りでは、同じ部隊にいた少年兵全員の十五人ほどが市民を逃がしたという。火と煙が押し寄せると、部隊も全員撤退。途中の防空壕(ごう)でも、中にいた人に「蒸し焼きになるので外に逃げろ」と叫んだ。
吉田さんは「命令に背いたので軍法会議にかけられるのが怖かった」と覚悟したが、空襲で軍の指揮命令系統は壊れ、まもなく終戦を迎えた。
吉田さんはこれまで、空襲の記憶を「思い出すと夢に出る。頭の中からなくしたい」と、語ってこなかった。だが昨年、作家の瀬戸内寂聴さんが安全保障関連法に反対するデモに参加したのを見て「語るべきことを語りたい」と決意した。
(大垣支局・滝田健司、写真も)
◆初めての証言、貴重
<岐阜空襲を記録する会事務局長の篠崎喜樹さん(81)の話>これまで岐阜県内の空襲を研究してきた中で、兵士が市民に避難を呼び掛けたという話が出たのは初めてで、貴重な証言だ。岐阜空襲の惨状を目の当たりにしたからこそ「防空法を守っていられる状況ではない」と感じたのかもしれない。兵士らのこの判断が、大垣空襲の犠牲者が非常に少なかったことの要因の一つだったと言えると思う。
<大垣空襲>太平洋戦争中、岐阜県大垣市は6回の空襲に見舞われた。最も被害が大きかったのは1945年7月29日で、約2万発の焼夷弾などで市中心部が焼け野原となり、国宝だった大垣城も焼失。市内の約4割に当たる4900戸が被災。当時の人口約5万6000人のうち、死者50人、負傷者は100人を超えた。
<防空法>1937年施行。空襲被害を防止軽減するという名目で、防空訓練への参加や灯火管制を国民に義務付けた。41年と43年に改正され、空襲時の退去禁止や消火義務を新設し、罰則規定も強化。45年7月の青森市の空襲では同法に基づいて「市内に戻らなければ配給物資を停止する」との通告が出て、多数の犠牲者が出た。終戦後の46年に廃止された。
TITLE:軍紀に反し市民逃がす大垣空襲で元少年兵が証言:一面:中日新聞(CHUNICHI Web)
DATE:2016年11月8日(火)
URL:http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2016110802000067.html

大垣空襲 - Wikipedia

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火星の前方後円墳

火星 https://goo.gl/wKDZwv
地球稲荷山古墳 https://goo.gl/5DFWw1

日本人はエイリアン : 核DNAの解析の末「オリジナルの日本人が
周辺アジアのどこにも見つからない」ことで日本人の出自が完全に
わからなくなっている今だからこそ言ってみる
http://indeep.jp/japanese-are-alien-or-direct-descendants-of-ancient-martians/

Alien hunters claim they've found a Martian structure 'identical'
to an ancient Japanese tomb - but Nasa says it's just a hill
https://goo.gl/nH8oxX

今まで用事のなかったGoogle Mapsでの火星表示を初めて使ったからちょっと記録。
ただ、今の仕様では火星での緯度経度検索ができないのかな?

yonta64.hatenablog.com

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望月靖之

64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か

真紅のブレザーに白のスラックス。1964年の東京オリンピック開会式で日本選手団が着用した「日の丸カラー」の公式服装(開会式用ユニフォーム)は、服飾デザイナーの石津謙介がデザインしたとされてきた。「石津デザイン」の記述は、現在もJOC日本オリンピック委員会)や公的機関のホームページに掲載されている。ところがその通説とは異なり、実際にデザインしたのは東京・神田で店を構えていた望月靖之という洋服商だという資料や証言が数多くある。望月とは誰か。なぜ石津デザイン説が広まったのか。(服飾史家 安城寿子/Yahoo!ニュース編集部)
http://news.yahoo.co.jp/feature/342

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藤井聡太

http://www45.atwiki.jp/jippensha/?cmd=upload&act=open&pageid=57&file=65_%27%E6%84%9B%E7%9F%A5%E3%81%AE%E8%97%A4%E4%BA%95%E3%81%95%E3%82%93%E3%80%81%E6%9C%80%E5%B9%B4%E5%B0%91%E3%83%97%E3%83%AD%E6%A3%8B%E5%A3%AB%E3%80%80%EF%BC%91%EF%BC%94%E6%AD%B3%EF%BC%92%E3%82%AB%E6%9C%88_%E4%B8%80%E9%9D%A2_%E4%B8%AD%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%28CHUNICHI%20Web%29%27.png

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史上最年少プロ棋士藤井聡太の「最強伝説」はこうして始まった

http://ironna.jp/article/6445?p=1
『Voice』 2016年12月号

藤井聡太将棋棋士

聞き手=タカ大丸(ポリグロット<多言語話者>)

 藤井聡太四段(10月1日付で四段に昇格)は、9月3日に最終日を迎えた第59回奨励会三段リーグ戦で1位となった。1954年に加藤一二三九段が14歳7カ月で達成した最年少記録を62年ぶりに更新し、史上最年少(14歳2カ月)プロ棋士が誕生した。過去に中学生でプロ入りを決めたのは、加藤九段のほかに、日本将棋連盟会長の谷川浩司九段、羽生善治三冠、渡辺明竜王の4名だけである。

 将棋のプロになるには必ず棋士一人の推薦を得て師匠となってもらい、日本将棋連盟が運営する奨励会というプロ棋士養成機関に入会しなければならない。最初は六級からスタートするが、県代表・アマ五段と奨励会の六級がほぼ同じレベルである。小学生のうちにこの奨励会に入らないと、まずプロになることはない。

 入会後は、各級・各段で規定の勝率(6連勝・9勝3敗など)を上げながら、昇級・昇段を重ねる。三段になると三段だけで構成される三段リーグ(年2回)で戦うことになるが、四段に昇格できるのは上位2名だけだ。今回の三段リーグの場合、29名が参加し、藤井四段を含め上位2名が昇段した。三段リーグ奨励会トップの棋士が集い、勝ち上がるのは容易ではない。
将棋の世界は三段まで無給で、四段からプロ棋士となり報酬がもらえるようになる。そして、年齢制限が厳然と存在する。26歳までに四段昇段、つまりプロになれない場合は原則退会である。三段リーグのなかで10代は3名しかいなかった。しかも2名は「19歳」である。そう考えると、藤井四段の凄みがよくわかる。

 私は、藤井四段がまだ小学6年生、奨励会初段のときから、成長を見届けている。小6で初段(最終的に二段になった)という記録は、羽生三冠、渡辺竜王を上回る早さである。今回は藤井四段の母・裕子さんの同席のもと、昇段直後の心境や将棋に打ち込む思いを聞いた。

――藤井四段が昇段を決めた例会当日、将棋連盟で待ち伏せしていたのですが、お父さまと肩を並べながら談笑する藤井四段を見かけて驚きました。多くの奨励会員は、たいてい、青ざめた顔で将棋連盟にやって来るものです。

藤井聡太(以下、聡太) あの日は、それほど緊張しませんでした。

――会場に入って、周囲からの威圧感はありましたか。大学生以上の棋士のなかで、1人だけ中学生が紛れ込んでいる。「こいつだけは上に行かせたくない」という思いは強いはずです。

聡太 昔から大会で年上とばかり指していたこともあり、特別な違和感やプレッシャーはあまりないですね。奨励会に入会してからはとくに、同級生と対局することも少なくなりましたし。

――しかし、藤井四段は第一局目を落としてしまいました。どこで間違えたのですか。

聡太 あとで知ったのですが、対局相手の坂井三段は「昇段者キラー」で有名だったようです。序盤、中盤は順調だったのですが、終盤で悪くしてしまい、逆転されてしまった。

――第一局が終わると、二局目の前に昼食が出ますね。その間、どのように過ごされていたのですか。

聡太 昼食は食べませんでした。奨励会は東京と大阪に本部があり、大阪で行なわれる対局だと、いろいろなメニューから好きな食事を選べるんです。でも、東京の場合なぜか、おかずが詰まった弁当しか出されない。僕はチャーハンのような一品物が好きなんです。ご飯とおかずというのは何か重い感じがして、その日もお弁当は口にしませんでした。

――午後の対局を前に、昇段争いは4人に絞られていました。午前中に勝った大橋三段がまず一抜けを決め、藤井三段を含む残り3人は全員負けていた。つまり、この日までに12勝4敗で首位に立っていた藤井四段が午後に勝てば文句なく昇段という局面でした。

聡太 二局目は、僕が勝ったら昇段、負けたら100%昇段しないという、わかりやすい状況だったので、迷わず指せました。

――これまでの戦歴を振り返って、大一番に負けたことはほとんどないのでは?

聡太 じつは、わりと負けているんです。五級昇級の際に、3、4回昇級を逃しています。その後はそれほどのことはなかったと思うのですが。

(補足)昨年8月、藤井聡太二段(当時)は、2連勝すれば三段昇段という場面があった。昇段を果たせば、9月からの三段リーグに参戦、この勢いで今年の3月に「中学1年生のプロ棋士」が誕生というのが私の読みだった。彼はこの機会を1勝1敗で逃した。三段昇段は昨年10月まで延び、次の三段リーグ開幕の4月まで半年もの期間が空いてしまった。これにより、藤井聡太の四段昇段が半年遅れてしまったともいえる。
――現在、藤井四段は名古屋大学教育学部附属中学校に通う中学2年生ですが、プロ棋士昇格が決まり、学校の反応はいかがでしたか?

聡太 学校には将棋部もないし、将棋に詳しい友人があまりいないんです。でも、新聞とかテレビに僕が出ているのを見て、“すげぇじゃん”とはいわれましたが(笑)。いま通っている学校は、カート競技で世界大会に出場している子もいたり、個人で取り組んでいることに対して、比較的大きな目で見てくれていると感じますね。先生も含めて、サラッと受け入れてくれていますよ。

――授業中に将棋のことを考えることはありますか。

聡太 それはないです。授業のときは授業に集中しています。師匠の杉本昌隆七段には「僕は学校に詰将棋を持参していっていたけれど」といわれたこともありますが、僕は持っていかない。頭の中で盤面が浮かぶということもありません。
4月13日、将棋の竜王戦ランキング戦6組で星野良生四段(右)を破り、自身の持つデビュー後の連勝記録を「12」に更新した藤井聡太四段=大阪市関西将棋会館
――藤井四段は、将棋の場面を図面で考えるのか、棋譜で考えるのか、どちらのタイプですか。

聡太 基本的に、符号で考えて、最後に図面に直して、その局面の形勢判断をしています。

――5歳で将棋を始めたきっかけが、祖母・育子さんが買ってきた「スタディ将棋」(くもん出版)だったそうですね。

藤井裕子(以下、裕子) それぞれの駒に矢印が付いていて、役割が一目でわかる将棋キットで、すぐに熱中していました。私の母がいうには、のめり込み方が、ほかの孫に比べて聡太だけ突出していたそうです。

聡太  「スタディ将棋」の何が気に入ったのかはあまり覚えていないのですが、単純に楽しかったのだと思います。将棋なら年上の相手と対等に渡り合えるというのも嬉しかった。どんどん新しい手を覚えて、それまで勝てなかった相手に勝てることに、やり甲斐を感じていました。

――この半年で急激に強くなったように感じます。3月に藤井三段(当時)と対戦したプロ棋士は「一期抜けは無理」と断言していました。一方で私の友人は、いまや三段と大駒一枚違うといいます。何があったのですか?

聡太 大駒一枚は、言い過ぎです(笑)。でも、今年の5月くらいからフリーソフトを何個かインストールして、パソコン上で将棋を指すようになりました。自分の弱みや間違っていた手がわかるので、勉強になります。

――プロ棋士になるための必須要件の1つに「詰将棋」があります。藤井四段はタイトル保持者を含むプロ棋士たちを抑え、2年連続「詰将棋回答選手権」で優勝していますが、詰将棋の楽しみを教えてください。

聡太 詰将棋は、配置された将棋の局面から王手の連続で相手の玉将を詰めるパズルのようなもので、終盤にかけて何か筋が見えた瞬間に快感を覚えます。詰将棋が自分を強くしてくれたと思っています。

――お母さまにお聞きします。5歳から将棋をずっと続けていた藤井四段をご覧になっていて、性格に何か変化はありましたか。

裕子 どちらかというと、いい変化のほうが大きいですね。集中力が身に付いたことで、長時間ジッと座っていられるようにもなりました。

 一方で、怒りっぽくなった印象があります。普段はほとんど怒ることはないのに、対局に負けると、不機嫌になるんです。外では抑えているのでしょうけど、家に帰ってくると、すごく悔しがっているのが伝わってきます。

聡太 負けたことが許せないというより、自分の弱さを痛感させられるんです。それが純粋に悔しい。

――藤井四段自身は自分の弱さをどう分析しているのですか。

聡太 先ほど母は、「集中力がある」と述べましたが、自分では集中力がないと思っています。目の前の対戦相手と対局していても、隣の対局のほうが気になってしまう。10分に1回ぐらいの間隔で、隣の対局の進捗が気になってしまうんです(笑)。

――自分の対局に必死で、横を見る余裕はないのでは?

聡太 ほかの対局が気になる棋士は、僕に限らずたまに見かけます。三段の試合に出場している棋士のなかには、席を立って、二段以下の対局を見に行く人もいました。三段の対局を見るのは気が重いから、二段以下、つまり自分に関係ない将棋を見て気分転換をしているらしいです。

裕子 私はもっと、集中したほうがいいと思うな。

聡太 もちろん、つねに目の前の対局に集中できればいちばんです。でも、緊張感のある対局のなかで、集中力を持続するのは意外に難しいんです。息抜きというわけではないですが、多少、気分を緩めることも必要かなという気もします。

――最近の将棋を語るうえで避けて通れないのが、AI(人工知能)との対戦です。2015年4~5月に開催された第1期電王戦では、山崎隆之叡王(八段)が将棋ソフト「Ponanza」(山本一成氏と下山晃氏が開発)に敗れました。現在、第2期電王戦でAIと対戦する棋士を決める叡王戦の本選が行なわれています。藤井四段はAIと戦うことをどう考えていますか。

聡太 個人的には、今後は囲碁や将棋といった「頭脳スポーツ」の分野においては、AIは勝負の対象ではなくなっていくのではないか、という気はします。たしかに、AI棋士がだんだん強くなり、将棋の概念が狭いものになってしまう懸念はありました。一方で、これまでにない新しい指し方もたくさん発見できたことで、僕自身も将棋の奥深さを再認識することができた。同じ視点で、将棋ファンの方にも、AIとの対戦を楽しんでもらえばいいのではないでしょうか。

 最終的には、プロ棋士よりAIが強くなると思います。両者の力の差はどんどん広がっていくかもしれない。たとえそうなったとしても、角落ち(上手が自分の駒のうちから角行を外して対局すること)されてまで勝負を挑むことに意味があるとは、僕は思わないです。

――「将棋ファン」という言葉を述べられましたが、最近では、29歳の若さで亡くなった天才将棋棋士村山聖の一生を描いた映画『聖の青春』が公開されたり、人気漫画『3月のライオン』(白泉社)がアニメ化されるなど、若年層のあいだで将棋がブームになっています。若くしてプロ棋士になったからこそ、将棋振興のためにご自身が果たせる役割をどう考えていますか。

聡太 将棋の素晴らしさは、年齢や性別を問わず、対等に対局できること。僕みたいな若い子が大人に交じって頑張っている姿を通して、将棋の魅力をいろいろな人に伝えることができれば、と思います。

――羽生善治三冠や76歳の加藤九段といったトップ棋士と同じテーブルで将棋を指せるのは、将棋ファンでなくても、羨ましく思います。

聡太 加藤九段とは先日、対談しましたが(『読売新聞』10月17日付)、その年齢まで将棋を続けられる加藤先生は偉大だと思います。

――最後に、プロ棋士になるにあたり、これまでサポートしてくれたお母さまへどんな言葉を贈りますか。

聡太 母は、将棋に関しては、あまり口出しをせずに、いつも傍で支えてきてくれたので、本当に感謝しています。

裕子 将棋に関してはよくわからないので口出しできないのですが、生活態度については、その都度注意するようにしています。息子のために将棋に集中できる環境を整えたい、とはいつも思っています。また、大勝負の前はとくに、聡太が落ち着いて試合に臨めるように、私自身も穏やかな気持ちでいよう、と心掛けています。

聡太 へぇ、そうなんだ(笑)。12月には初対局が控えています。これまでと変わらずしっかり準備をして、あまり気負わずに戦っていきたい。頑張りますので、読者の皆さんにも応援していただけたら、嬉しいです。


中日新聞テキスト

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小池百合子知事 築地市場の移転延期を表明

小池百合子知事、築地市場の移転延期を表明 「『既定路線でしょ』とはならない」

11月7日に予定されていた東京・築地市場中央区)の豊洲新市場(江東区)への移転について、8月31日、小池百合子都知事が記者会見を開いて移転を延期することを発表した。また、これに伴い築地市場の閉鎖・取り壊しも延期する。

小池氏は市場関係者や都議会が移転に賛成したことなどから「11月7日の移転には賛否両論ある」としながらも、自身の視察などの結果、「安全性」「巨額・不透明な費用」「情報公開の不足」という「3つの疑問点」があり、まだ解消されていないとして、延期の理由とした。

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