人の土俵で褌を取る

気になったニュースの備忘録+α

夏目漱石つながり

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2016年12月10日中日新聞 佐藤正明「それから」どうなる

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朴槿恵大統領の弾劾、韓国国会が可決 予想外の大差で職務停止に
韓国・朴槿恵大統領の弾劾訴追案が12月9日、国会で採決され、賛成234票、反対56票で可決された。

夏目漱石

夏目漱石のまな弟子・鈴木三重吉は、師と同じく神経衰弱に苦しんだ。大学を休学しなくてはならず、自殺を思うほど追い詰められたが、それを救ったのが、漱石からの手紙だったという
漱石の書簡集にある三重吉宛ての一通は一九〇五年の大みそかに書かれ、消印は元日の午前零時から五時。夜更けまで書き、わざわざ出しに行ったのであろう、その手紙からは、漱石の心のぬくもりが、湯気を立てんばかりに伝わってくる
▼<書斎で一人で力んでいるより大(おおい)に大天下に屁(へ)の様な気焔(きえん)をふき出す方が面白い。来学年から是非出て来給(きたま)え>。このころ漱石自身も精神的に苦しみ、「屁の様な気焔」を天下にふき出すつもりで『吾輩は猫である』などを書いていたのだ
▼そんな教育者としての顔は弟子らにだけ向けられたのではなかった。後年、三重吉が師の家を訪れると、汚い服を着た少年に英語を教えていた。体調が悪そうなのに丁寧に教え続けた文豪はこう言って笑ったという
▼「どこかの子だか、英語を教えてくれとやって来たのだ。私はいそがしい人間だから今日一度だけなら教えてあげよう。一体だれが私のところへ習いにいけと言ったのかと聞くと、あなたはエライ人だというから英語も知ってるだろうと思って来たんだと言ってた」
漱石没して、きょうで百年。その書を開けば今でも、先生の教え子になれる。
中日春秋(朝刊コラム):中日新聞(CHUNICHI Web) - 2016年12月9日
URL:http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2016120902000112.html

寺田寅彦 大隅良典 ベンジャミン・フランクリン

科学とは「不思議を殺すものでなくて、不思議を生み出すものである」という名言を残したのは、夏目漱石の弟子で物理学者の寺田寅彦
▼たとえば、かつては「すべてのものは原子からできている」と教わったのに、科学の進展で、私たちが知る原子でつくられている物質は宇宙のわずか4%にすぎず、残りは謎の物質だと分かった
▼常識が覆され、新たな不思議が見つかる。そのおかげで私たちはより深く、違った角度から考えられるようになる。それが科学の醍醐味(だいごみ)だろうが、どうもわが国の政府は「不思議を生み出す」科学に冷淡なようだ
▼きょう、ノーベル賞の授賞式典に臨む大隅良典さんは「謎が解かれた時、新たな謎が生まれるのが科学」と説き、「科学が役に立つというのが、数年後に企業化できることと、同義語になっている」と憂いている。研究費が削られ、拙速に成果が求められる現状では、科学立国の礎(いしずえ)が危ういとの警鐘だ
▼偉大な政治家にして科学者でもあったベンジャミン・フランクリンには、こんな逸話が伝わる。自然科学の新たな成果に接した人が、「これは何の役に立つのだ?」と聞くと、彼は聞き返した。「では、生まれたばかりの赤ん坊は、何の役に立つというのです?」
▼大人には計り知れぬ可能性を秘めた「赤ん坊」に「何の役に立つか?」を問う。そういう社会では、未来は育めまい。
中日春秋(朝刊コラム):中日新聞(CHUNICHI Web) - 2016年12月10日
URL:http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2016121002000113.html

大隅良典人形寄贈 ノーベル博物館

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ノーベル博物館への寄贈品のひとつで、研究者仲間からプレゼントされた若き日の自身のフィギュアを説明する大隅良典さん=8日午前、ストックホルム川村直子撮影

大隅良典・東京工業大栄誉教授(71)がノーベル博物館に贈った人形は、昨年あったガードナー国際賞受賞と古希を祝う会で、これまでの大隅研究室の在籍者からプレゼントされた品だった。
門下生の一人で、東工大の中戸川仁准教授(42)によると、この人形を手渡された時の大隅さんは少し照れながらも、うれしそうだったという。
人形は、大隅さんがオートファジー(自食作用)の観察に酵母で初めて成功した1988年当時の姿をモデルにした。顕微鏡を前に座っているのは、顕微鏡をのぞくことが好きな大隅さんの象徴的な場面だ。人形はこれまで大隅さんの教授室に飾られていた。
中戸川さんは「人形を近くで見られなくなるのはちょっとさみしいが、博物館で多くの人に見てもらえるのはとてもうれしい」と話した。(ストックホルム=南宏美)
大隅さん「28年前の姿」の人形寄贈ノーベル博物館に:朝日新聞デジタル - 2016年12月9日13時13分
http://www.asahi.com/articles/ASJD86SQFJD8UBQU00Z.html

夏目漱石アンドロイド

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漱石アンドロイドお披露目 孫の声で「夢十夜」を朗読

9日は夏目漱石の没後100年の命日。二松学舎大と大阪大の石黒浩研究室が共同製作、朝日新聞社が協力した漱石アンドロイド(人間型ロボット)が8日、披露され、孫の夏目房之介さんの声で「百年待っていて下さい」と「夢十夜」を朗読した。10日午後0時半からは東京・有楽町朝日ホールで開かれる「漱石国際エッセーコンテスト」表彰式で、午後4時からは東京・有楽町朝日ギャラリーで一般公開される。無料。吉川一樹
朝日新聞デジタル 2016年12月8日21時37分
http://www.asahi.com/articles/photo/AS20161208004610.html

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北原佐和子

<生きる 支える 心あわせて>俳優と介護職と(上)

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「今日も元気でいきましょう!」。デイサービスのレクリエーションを巧みな話術とアクションでリードする北原佐和子さん=千葉県船橋市の学研ココファン西船橋

サイドヘアを外巻きカールにした女の子が、正方形の写真の中で愛らしく小首をかしげている。
「一九八二年に私、歌手デビューしました。これがレコードジャケットの写真。ですが、本当は歌は得意じゃなかったんです」
千葉県船橋市のデイサービス施設。集まった二十人余の高齢者を前に、オレンジのポロシャツを着た北原佐和子さん(52)が、投影機を使って自己紹介を始めた。
元アイドルで現役俳優、そして介護福祉士。この日は、レクリエーションを担当した。前半は、時代劇で共演した大物俳優との裏話を織り交ぜながら、互いの思い出を語り合うことで脳を刺激する「回想法」を実践。後半は手ぬぐいを使った体操を指導した。細い体でクルクルと動き回る。アイドル時代と変わらない大きな瞳もクルクル。「話や体操の進行が上手。楽しかったあ」。利用者の金子アイさん(85)はほほ笑んだ。
埼玉県でサラリーマン家庭に育つ。三人きょうだいの一番上。気持ちも体も弱い子だったが、両親は厳しく「抱き締められた記憶もありません」。家庭に居場所が見つけられない中、高一の時、友人と応募したティーン雑誌の読者モデルに選ばれ、芸能事務所入り。同僚の女の子三人でアイドルグループを結成してから人気に火が付き、十八歳でソロレコードデビューすると、CMの契約申し込みが三十本近く殺到した。
「大人たちが全部お膳立てをして、運転手付きの車で仕事に行く。有頂天でした。ただ、歌や芝居をきちんと習ったわけでなく、自分に中身がないのを知っていたから怖くもありました」
不安は間もなく現実になる。人気に陰りが見え始めると「周囲の人たちがスーッと離れ」、三年後にレコード会社との契約も切れた。テレビドラマなどの俳優業は続けたが、一つの仕事が終わると次が確実にあるか分からない。休業期間が二~三カ月に及ぶことも。
日本舞踊や華道、陶芸など趣味を広げたが、満たされない。「ほかにするべきことは」。自問を続けた。
二十代後半になったある雨の日。東京都内にマイカーで出掛け、運転席で待ち合わせの友人を待っていると、サイドウインドーの向こうを、手足をこわばらせて歩く若い男性の姿が目に入った。「脳性まひの人かな」。傘を差しているが、手が不自由なため、体はずぶぬれだ。
「あのっ」。何かに突き動かされ、ドアを開けると声を掛けた。「良かったら乗ってください」。待ち合わせの友人をほったらかしにして、十五分ほどの距離を自宅まで送り届けた。
子どものころから、駅の切符売り場の辺りで困っている高齢者や障害者を見かけると、どうにも気になって仕方なかった。このときは、勇気を持って行動できたことに自分でも驚いた。
「俳優と福祉の仕事との両立ができたら」-。華やかな芸能界にいながら、常に感じていた心の隙間を、その道を思い付いて少し埋められそうな気がした。
ただ、どうしたら福祉の仕事に就けるのか。当時は年齢相応の役をこなしながら、徐々に俳優としての地歩を固めていた。また、結婚・離婚といった私事も重なって、いつしか頭の中の「福祉」の存在は中ぶらりんに。そんな状態が十年ほど続いたころ、たまたま、自宅近くの障害者施設の交流祭に出向いたのを機に意を決した。
「ここで働かせてもらえませんか」
(白鳥龍也)
TITLE:<生きる 支える 心あわせて>俳優と介護職と(上):暮らし:中日新聞(CHUNICHI Web)
URL:http://www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2016113002000004.html
2016年11月30日

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ニコラス・ウィントン

ニコラス・ウィントン
ロンドン郊外の美しい町に住むグレタ・ウィントンさんが、夫ニコラスさんの重大な秘密に気づいたのは、結婚して四十年もたってからだった。屋根裏で夫の過去の行いを物語る驚くべき書類を見つけたのだ
▼その秘密が公にされると、世界中から「あなたこそ、私の父だ」と名乗りを上げる人が現れ、その数は二百人を超えた。「あなたは、私の祖父だ」という人まで現れて、夫妻を驚かせた
▼一九三八年、ナチスの脅威が迫る中、チェコスロバキアを訪れたニコラスさんは、ユダヤ人難民らの姿に衝撃を受けた。各国とも難民受け入れに消極的だったが、彼は「せめて子どもたちだけでも」と里親を探して、六百六十九人の子どもたちを英国に脱出させた
▼しかし戦後、ニコラスさんは、救い切れなかった無数の命を思い、自らの英雄的な行いについて、口をつぐんだ。妻にさえ打ち明けなかった。その理由を問われれば、英国紳士らしくユーモアを交え答えた。「夫が妻に言わないことなど、たくさんあるよ」
▼昨年百六歳で逝った彼と、彼を父と慕う子らの姿を描いた映画『ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち』がきょう、名古屋などで公開される
▼映画はこんな字幕で始まる。<世の中には、観客として見るだけでなく、自身が主人公となる物語もあります>。「戦争と平和」とは、そういう物語なのだろう。
中日春秋(朝刊コラム):中日新聞(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2016112602000115.html
2016年11月26日中日春秋

ニコラス・ウィントン イギリスのシンドラー
ニコラス・ウィントン - Wikipedia
去年2015年7月1日に亡くなっている。報道もされただろうに私は何を見ていたのか。


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吉田正己さん

軍紀に反し市民逃がす大垣空襲で元少年兵が証言

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71年前の大垣空襲で「軍紀に反して市民を逃がした」と証言する吉田正己さん=岐阜県大垣市
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太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年七月二十九日に岐阜県大垣市であった「大垣空襲」で、市民に消火を命じる任務だった元少年兵の吉田正己さん(87)=同市=が本紙の取材に「軍紀に反して『とにかく逃げろ』と市民を避難させた。同僚も同じことをした」と証言した。大垣空襲の犠牲者は五十人で、他都市の空襲に比べて極端に少なく、研究者らの間で注目されている。逃げ惑う市民を少年兵らが避難させた事実が、被害拡大を防ぐ一因だったことが浮かび上がった。
戦時中の「防空法」が空襲の際、都市からの退去禁止と消火を国民に義務づけていたことが、人的被害を大きくした要因と考えられている。陸軍二等兵だった吉田さんは空襲時、道路に非常線を張り、逃げる住民を押し戻す任務に就いた。
吉田さんは、大垣空襲の直前の七月九日に岐阜市であった空襲で、大垣市から出動。焼夷(しょうい)弾のすさまじい炎で焼かれる街を目の当たりにし「(はたきのような)火たたきやバケツリレーで火を消せるわけがない。機関銃に竹やりで挑むのと同じだ」と感じた。
市民を逃がすのは命令違反で、軍法会議にかけられる恐れがあると分かっていた。だが、八百数十人の犠牲者を出した岐阜空襲を目撃した大垣の少年兵らは「地元が空襲に遭ったら一人でも多くの人を逃がそうと考えるようになった」と話す。
大垣空襲で、吉田さんの部隊は市中心部の郭(くるわ)町の十字路で非常線を張ったが、逃げてくる人々に「とにかく南へ逃げろ」と避難させた。吉田さんの知る限りでは、同じ部隊にいた少年兵全員の十五人ほどが市民を逃がしたという。火と煙が押し寄せると、部隊も全員撤退。途中の防空壕(ごう)でも、中にいた人に「蒸し焼きになるので外に逃げろ」と叫んだ。
吉田さんは「命令に背いたので軍法会議にかけられるのが怖かった」と覚悟したが、空襲で軍の指揮命令系統は壊れ、まもなく終戦を迎えた。
吉田さんはこれまで、空襲の記憶を「思い出すと夢に出る。頭の中からなくしたい」と、語ってこなかった。だが昨年、作家の瀬戸内寂聴さんが安全保障関連法に反対するデモに参加したのを見て「語るべきことを語りたい」と決意した。
(大垣支局・滝田健司、写真も)
◆初めての証言、貴重
<岐阜空襲を記録する会事務局長の篠崎喜樹さん(81)の話>これまで岐阜県内の空襲を研究してきた中で、兵士が市民に避難を呼び掛けたという話が出たのは初めてで、貴重な証言だ。岐阜空襲の惨状を目の当たりにしたからこそ「防空法を守っていられる状況ではない」と感じたのかもしれない。兵士らのこの判断が、大垣空襲の犠牲者が非常に少なかったことの要因の一つだったと言えると思う。
<大垣空襲>太平洋戦争中、岐阜県大垣市は6回の空襲に見舞われた。最も被害が大きかったのは1945年7月29日で、約2万発の焼夷弾などで市中心部が焼け野原となり、国宝だった大垣城も焼失。市内の約4割に当たる4900戸が被災。当時の人口約5万6000人のうち、死者50人、負傷者は100人を超えた。
<防空法>1937年施行。空襲被害を防止軽減するという名目で、防空訓練への参加や灯火管制を国民に義務付けた。41年と43年に改正され、空襲時の退去禁止や消火義務を新設し、罰則規定も強化。45年7月の青森市の空襲では同法に基づいて「市内に戻らなければ配給物資を停止する」との通告が出て、多数の犠牲者が出た。終戦後の46年に廃止された。
TITLE:軍紀に反し市民逃がす大垣空襲で元少年兵が証言:一面:中日新聞(CHUNICHI Web)
DATE:2016年11月8日(火)
URL:http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2016110802000067.html

大垣空襲 - Wikipedia

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火星の前方後円墳

火星 https://goo.gl/wKDZwv
地球稲荷山古墳 https://goo.gl/5DFWw1

日本人はエイリアン : 核DNAの解析の末「オリジナルの日本人が
周辺アジアのどこにも見つからない」ことで日本人の出自が完全に
わからなくなっている今だからこそ言ってみる
http://indeep.jp/japanese-are-alien-or-direct-descendants-of-ancient-martians/

Alien hunters claim they've found a Martian structure 'identical'
to an ancient Japanese tomb - but Nasa says it's just a hill
https://goo.gl/nH8oxX

今まで用事のなかったGoogle Mapsでの火星表示を初めて使ったからちょっと記録。
ただ、今の仕様では火星での緯度経度検索ができないのかな?

yonta64.hatenablog.com

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望月靖之

64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か

真紅のブレザーに白のスラックス。1964年の東京オリンピック開会式で日本選手団が着用した「日の丸カラー」の公式服装(開会式用ユニフォーム)は、服飾デザイナーの石津謙介がデザインしたとされてきた。「石津デザイン」の記述は、現在もJOC日本オリンピック委員会)や公的機関のホームページに掲載されている。ところがその通説とは異なり、実際にデザインしたのは東京・神田で店を構えていた望月靖之という洋服商だという資料や証言が数多くある。望月とは誰か。なぜ石津デザイン説が広まったのか。(服飾史家 安城寿子/Yahoo!ニュース編集部)
http://news.yahoo.co.jp/feature/342

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