人の土俵で褌を取る

気になったニュースの備忘録+α

吉田正己さん

軍紀に反し市民逃がす大垣空襲で元少年兵が証言

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71年前の大垣空襲で「軍紀に反して市民を逃がした」と証言する吉田正己さん=岐阜県大垣市
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太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年七月二十九日に岐阜県大垣市であった「大垣空襲」で、市民に消火を命じる任務だった元少年兵の吉田正己さん(87)=同市=が本紙の取材に「軍紀に反して『とにかく逃げろ』と市民を避難させた。同僚も同じことをした」と証言した。大垣空襲の犠牲者は五十人で、他都市の空襲に比べて極端に少なく、研究者らの間で注目されている。逃げ惑う市民を少年兵らが避難させた事実が、被害拡大を防ぐ一因だったことが浮かび上がった。
戦時中の「防空法」が空襲の際、都市からの退去禁止と消火を国民に義務づけていたことが、人的被害を大きくした要因と考えられている。陸軍二等兵だった吉田さんは空襲時、道路に非常線を張り、逃げる住民を押し戻す任務に就いた。
吉田さんは、大垣空襲の直前の七月九日に岐阜市であった空襲で、大垣市から出動。焼夷(しょうい)弾のすさまじい炎で焼かれる街を目の当たりにし「(はたきのような)火たたきやバケツリレーで火を消せるわけがない。機関銃に竹やりで挑むのと同じだ」と感じた。
市民を逃がすのは命令違反で、軍法会議にかけられる恐れがあると分かっていた。だが、八百数十人の犠牲者を出した岐阜空襲を目撃した大垣の少年兵らは「地元が空襲に遭ったら一人でも多くの人を逃がそうと考えるようになった」と話す。
大垣空襲で、吉田さんの部隊は市中心部の郭(くるわ)町の十字路で非常線を張ったが、逃げてくる人々に「とにかく南へ逃げろ」と避難させた。吉田さんの知る限りでは、同じ部隊にいた少年兵全員の十五人ほどが市民を逃がしたという。火と煙が押し寄せると、部隊も全員撤退。途中の防空壕(ごう)でも、中にいた人に「蒸し焼きになるので外に逃げろ」と叫んだ。
吉田さんは「命令に背いたので軍法会議にかけられるのが怖かった」と覚悟したが、空襲で軍の指揮命令系統は壊れ、まもなく終戦を迎えた。
吉田さんはこれまで、空襲の記憶を「思い出すと夢に出る。頭の中からなくしたい」と、語ってこなかった。だが昨年、作家の瀬戸内寂聴さんが安全保障関連法に反対するデモに参加したのを見て「語るべきことを語りたい」と決意した。
(大垣支局・滝田健司、写真も)
◆初めての証言、貴重
<岐阜空襲を記録する会事務局長の篠崎喜樹さん(81)の話>これまで岐阜県内の空襲を研究してきた中で、兵士が市民に避難を呼び掛けたという話が出たのは初めてで、貴重な証言だ。岐阜空襲の惨状を目の当たりにしたからこそ「防空法を守っていられる状況ではない」と感じたのかもしれない。兵士らのこの判断が、大垣空襲の犠牲者が非常に少なかったことの要因の一つだったと言えると思う。
<大垣空襲>太平洋戦争中、岐阜県大垣市は6回の空襲に見舞われた。最も被害が大きかったのは1945年7月29日で、約2万発の焼夷弾などで市中心部が焼け野原となり、国宝だった大垣城も焼失。市内の約4割に当たる4900戸が被災。当時の人口約5万6000人のうち、死者50人、負傷者は100人を超えた。
<防空法>1937年施行。空襲被害を防止軽減するという名目で、防空訓練への参加や灯火管制を国民に義務付けた。41年と43年に改正され、空襲時の退去禁止や消火義務を新設し、罰則規定も強化。45年7月の青森市の空襲では同法に基づいて「市内に戻らなければ配給物資を停止する」との通告が出て、多数の犠牲者が出た。終戦後の46年に廃止された。
TITLE:軍紀に反し市民逃がす大垣空襲で元少年兵が証言:一面:中日新聞(CHUNICHI Web)
DATE:2016年11月8日(火)
URL:http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2016110802000067.html

大垣空襲 - Wikipedia

「避難優先」市史にも記述大垣空襲、「当局」1週間で撤回

太平洋戦争中の空襲時、国民に退避を禁じた「防空法」に反し、大勢の市民が避難して犠牲者が少なかった岐阜・大垣空襲。少年兵が市民を避難させただけでなく、「大垣市史」にも終戦近くに、方針を変更して避難を優先するよう住民に呼び掛けたことを示す資料があった。1週間後に撤回され、だれが呼びかけたかは不明だが、岐阜市市民グループ「岐阜空襲を記録する会」は「犠牲者を減らした一因となった可能性がある」と指摘する。
空襲時の都市からの退去禁止や消火を義務付けた防空法は、国民の戦意喪失を防ぐ目的でつくられた。国民は「焼夷(しょうい)弾は簡単に消せる」「逃げるな、火を消せ」との意識を刷り込まれ、被害が大きくなったと考えられている。
大垣市と同じ1945年7月28~29日の空襲で、津市や愛知県一宮市では数百人の犠牲者が出たが、大垣市は50人だった。記録する会は70年代後半、その理由の手がかりとなる記述を「大垣市史資料編近代」に収載された「南●(みなみのかわ)町第5部重要事項記録」に見つけた。
岐阜空襲で800数十人が犠牲になった7月9日には「今回の焼夷弾は発火と火の回りが早く、初期防火など思いもよらないことを教えられた。その結果、避難を主とすることに当局の方針が変わった」という内容の記述がある。
翌10日も「岐阜市への空襲の教訓から、やむをえず当局も従来の方針に訂正を加え、防空活動が可能な人でも速やかに退避して、その生命を守ることに重点を置くことになった」と記されている。
だが16日には「空襲警報により、防空要員を残さずに逃げる者は、少なくとも3日間ほど配給を停止する」とある。記録からは、いったん「当局」は避難優先へ方針転換したが、1週間後には、違反者は配給や居住の権利がなくなるとして、退去禁止に戻したことが読み取れる。
この記録は南●町の「町内防空部長」が残したとされるが、その人物が誰だったのか、「当局」とはどこなのかなど、詳細は分かっていない。
大垣空襲で自宅裏の池に焼夷弾が落ちたという伊藤英司さん(85)=大垣市=は「岐阜空襲の教訓から『防空壕(ごう)に逃げても蒸し焼きになる。まずは外へ逃げよ』という考えが広まっていた」と証言する。一方で、記録に出てくる当局の方針は「聞いたことがない。当局が『逃げろ』と言えるような時代ではなかった」と話している。
中日新聞
<「検証防空法」の著書がある水島朝穂・早稲田大教授(憲法学)の話>防空法は「避難を禁ず」が大前提。行政などが国民の命を優先して法に反することをやれば処分され、場合によっては逮捕も免れない。実際の空襲を知っている人たちが「初期消火どころではない」と国民を避難させた事例は各地にあったと思われるが、そんなことは記録に残せない。その意味で大垣の事例は貴重。一度でも通達として出ていたとすれば、実際に影響力があったと考えられる。
※)●は順の川が峡の旧字体のツクリ

これで思い出した人、桐生悠々 - Wikipedia

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