人の土俵で褌を取る

気になったニュースの備忘録+α

大塩平八郎

1837年2月19日大塩平八郎、決起する

揺らぐ?「救民の義挙」説
長く大阪で暮らしたこともあって、大塩平八郎(1793〜1837年)という人物は「困窮した庶民を救うため、立ち上がった義人」とばかり思い込んでいた。ところが最近、そんなイメージが揺らいでいるという。
天保8(1837)年2月19日、大坂天満で砲声がとどろいた。「大塩の乱」である。大塩は大坂町奉行所の与力職を養子に譲って7年、家塾「洗心洞(せんしんどう)」を主宰する陽明学者だった。
飢饉(ききん)の中、豪商によってコメが買い占められていた。奉行所も有効な手が打てなかった。大塩の門弟ら約300人の武装集団は「救民」の幟(のぼり)を押し立て、商家などを襲っては放火した。しかし乱は半日で鎮圧され、大塩は1カ月余り潜伏したあと自殺した。
平川新(あらた)・東北大学教授(日本近世史)は著書『開国への道』で、大塩の動きを詳細にたどった。その結果、水戸藩の要請を受けて内密にコメを融通したり、1千両(約2億円)もの融資の口利きをしたりした形跡が浮かびあがった。大塩の行動は一筋縄で説明できない面があるようだ。
もう一つ、平川教授が看過できないのは、大塩の乱の引き起こした甚大な犠牲と混乱である。大坂の町は5分の1が焼け、7万人もの人が家を失ったとされている。
幕政を正すという大義名分はあっても、果たして許されることだろうか。事実、大坂の人口は乱を機に減少したといわれている。
「大塩については、今後いっさいのタブーを排して再検討する必要がある」と平川教授は言う。
元与力による反乱は社会に大きな衝撃を与えた。幕閣にも、「経世済民に真剣に取り組まなくては」という危機感を持たせた。その実像を解き明かす研究は今後、新史料の探索も含めて進むに違いない。(渡部裕明)
MSN産経ニュース 2012.2.28 08:06