人の土俵で褌を取る

気になったニュースの備忘録+α

津波犠牲74人大川小、人災も認める


津波に対するマニュアルの不備などを認め謝罪する(右から)大川小の柏葉照幸校長、境直彦教育長ら=22日夕、宮城県石巻市の飯野川第一小で

東日本大震災の津波で全校児童の七割に当たる七十四人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の保護者に対する市教委と学校側からの説明会が二十二日、開かれた。柏葉照幸校長は「津波被害は想定しておらず、教員の危機意識の低さが原因。申し訳ない」と人災の面に初めて言及し、謝罪した。(北島忠輔、吉野淳一)
説明会は三回目で、昨年六月以来七カ月ぶり。遺族の要望を受け、報道機関に公開で行われ、保護者六十人が出席した。
学校側は震災への対応を「津波に対応するマニュアルの不備と教員の危機意識の低さ、学校は安全という思い込みが絡み合い、適切な避難誘導ができなかった」と総括した。
遺族は「マニュアルがなくても避難できた小学校はある」と追及。震災があった場合に子を親に引き渡す訓練をしていなかったのが原因との声が相次いだ。
柏葉校長は「私の怠慢」と認め、何度も謝罪した。遺族の男性は「校長の怠慢を許す市教委の姿勢が惨事を招いた」と猛烈に批判。境直彦教育長は「学校管理下で子どもたちが亡くなったことを考えれば、人災という面もある」と陳謝した。
八〜十二月に保護者や児童から聞き取った結果として、保護者が裏山への避難を求めても教員が「大丈夫」と取り合わず、校庭にとどまったことや、校庭に避難した児童が「こんなところで死んでたまるか」と話していたことなどが報告された。
東京新聞2012年1月23日

大川小が謝罪 “人災否定できず”

津波で多くの児童が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校の保護者に対する説明会が開かれ、市の教育委員会は、学校の防災体制の不備などを挙げて、「人災の面も否定できない」と初めて公式の場で責任を認め、謝罪しました。

宮城県石巻市の大川小学校では、津波で全校児童108人のうち70人が死亡し、いまも4人の行方が分かっていません。市の教育委員会がこれまでに2回開いた説明会では、状況の説明が二転三転したり、保護者からの質問が途中で打ち切られたりして、不満の声が上がっていました。22日に開かれた3回目の説明会で柏葉照幸校長は、災害時に児童を保護者に引き渡す訓練を行っていなかったことや、学校の防災マニュアルに書かれた津波の際の避難場所をみずからも正確に把握していなかったことなどを挙げて、「私の怠慢で防災体制が十分にできていなかった」と述べました。そして石巻市教育委員会の境直彦教育長が学校の防災体制の確認を怠っていたとして、「犠牲の背景には、学校や教育委員会に防災上の不備があり、人災の面も否定できない」と初めて公式の場で責任を認め、謝罪しました。教育委員会は、今後も必要に応じて説明の場を設けるとともに行方不明の4人の捜索を継続することを約束しました。

説明会では、大川小学校でただ一人生き残った教諭の男性が書いた手紙が、出席した保護者に配られました。この手紙は、教諭の男性が去年6月、校長に出していたもので、内容の一部は保護者に宛てたものになっています。その冒頭で、教諭の男性は「私が出向いて直接、お話ししなければならないのですが、精神を病んで混乱しており、伺うことができません」としたうえで、津波がくるまでの状況を説明しています。この中では、「子供たちが校庭に避難した後、私は校舎内に戻り、全ての教室、トイレを含めて残留者がいないか確認しました。開かないドアがあったりして全部回るにはかなり時間がかかりました」としています。そして、確認作業が終わって校庭に戻り、ほかの教員たちに対応を尋ねた状況については「『どうしますか、山へ逃げますか?』と聞くとこの揺れの中ではだめだというような答えが返ってきました」と書かれています。その後、学校の隣にある「交流会館」に避難しようとしていた地元の人たちに、教頭が危険だからやめるように説得していた状況や、寒さで震えている子どもたちのために教室にあったジャンパーや靴などを校庭に運んだことなどが記されています。その後、手紙では津波が来る直前に、近くの山へ避難することを検討した状況が説明されています。この中では、「サイレンが鳴って津波が来るという声が聞こえてきました。私は校庭に戻って教頭に「津波が来ますよ。どうしますか。危なくても山へ逃げますか」と聞きました。でも、何も答えが返ってきませんでした。それで、せめて一番高い校舎の2階に安全に入れるか見てくるということで、私が一人で校舎2階を見てきました。そして戻ってくると、すでに子どもたちは移動を始めていました」と書かれ、避難先が山ではなく、学校よりやや高い場所にある橋のたもとに避難した状況が描かれています。避難先が山ではなく、橋のたもとに決まったいきさつについては、「分かりません」と書かれています。手紙の最後では、「子供の命を守るという教師として最低のことができなかった。本当に申し訳ございません」と謝罪しています。
NHKニュース 1月23日 6時6分

津波からの児童避難「1本でも道があれば」大川小教諭が手紙

東日本大震災の津波で児童74人と教職員10人が死亡・不明となった宮城県石巻市の大川小学校。昨年3月11日の地震後、津波から避難する児童の列は、なぜ学校の裏山ではなく、橋のたもとに向かったのか。今も明確な理由は分からない。現場にいて唯一助かった教諭は「(裏山に)せめて1本でも道があれば」と手紙につづっている。
教諭が書いた手紙は2通。校長宛てと保護者宛てだった。
保護者への手紙によると、地震後、校庭に避難した教諭が、教頭らに「山に逃げますか」と聞いた際、木が倒れるのでこの揺れでは駄目だという意見が出た。誰がそう言ったのかは覚えていないという。
当時、校長は不在で、教頭が責任者だった。教諭は校長への手紙に「想像ですが、ずっと強い揺れが続いており、道もない山に登らせるのをためらわれたのだと思います」と教頭の心情を推測。「せめて1本でも道があれば、迷わず(裏山への避難の)指示を出されたと思います」「(私が)山に行きましょうと強く言っていればと思うと、悔やまれて胸が張り裂けそうです」と後悔を記している。
児童・教職員は地震から約50分間も校庭にとどまり、近くの新北上大橋たもとの堤防方向に避難を始めた直後に津波に襲われた。教諭は避難場所の決定の協議には加わっていなかったと説明している。
石巻市教育委員会は22日に保護者説明会を開催し、手紙も公開した。2児を亡くした母親(44)は橋のたもとへの避難を「学校より少しでも高い場所に行こうとしたのだろう」と推測する。
家庭では、日ごろから子どもと災害時の行動を話していた。「津波の時はどうするの?」と聞いた際も、2人は「山に逃げる」と元気に答えていた。避難先を分かっていたはずと思うと、今でも涙が込み上げる。
学校の説明は満足のいくものではないが「先生たちも必死だったはず。責めることはできない」と語った。〔共同〕
日本経済新聞 2012/1/24 20:41

大川小、生存教諭の文書公文書として管理せず…宮城

7か月半、存在伏せたまま
児童74人と教職員10人が死亡・不明になった宮城県石巻市立大川小学校で、津波にのまれて唯一生き残った男性教務主任が、保護者宛てに被災時の様子を説明した文書を市教委が公文書として管理せず、文書の存在を共有していなかったことが、23日わかった。
担当者が個人的に管理していた。文書は6月3日付だったが、22日の説明会で公表されるまで7か月半も明らかにされなかった。
教務主任の文書は保護者と柏葉照幸校長宛てで、2回目の説明会前日に学校側に届いた。市教委は今月22日の3回目の説明会後、公表が遅れた理由について、「教諭が文書に実名を明記したのを気にしていたため」などと説明していた。
市教委によると、昨年6月に就任した境直彦教育長が、市教委のこれまでの説明に食い違いがあることから、その原因となった文書を探したところ、担当者が個人管理していた文書の中から教務主任の文書が見つかったという。市教委は「当時の担当者の判断だったが、受け取った時点で公文書扱いにすべきで、本来なら6月の説明会で示すべきだった」としている。

不信感募らす保護者たち
市教委の対応に、保護者は不信感を募らせる。6年生だった長男今野大輔君を亡くした母ひとみさん(41)は「まだ隠していることがあるのではないかと疑いの目で見ざるを得ない」と怒りをあらわにした。
(2012年1月24日 読売新聞)
YOMIURI ONLINE

参照:日本の組織の特徴