人の土俵で褌を取る

気になったニュースの備忘録+α

立川談志

談志さんお別れの会 上岡龍太郎さんはじめ参列者インタビューです


21日におこなわれた立川談志さんのお別れ会は、落語家や芸能関係者など約1000人が参列し、ジャズの演奏や、東西の落語家によるエピソードの披露など和やかな雰囲気でおこなわれました。上岡龍太郎さんはじめ参列した方々*1のインタビューを掲載します。

上岡龍太郎さん
一般人になって11年になりますから、こんなん(会見)生まれて初めてです。
談志さんとは出会って50年。きょう大阪から来るとき思い出していたんです。
昭和36年の11月11日、新宿の松竹文化演芸場の一階喫茶店でね、
柳家小ゑんと申します、お友達になりましょう」と言って(横山)ノックさんに声をかけたのが談志さんでした。ノックさんは驚いて「なんでまた友達に〜」と言ったら「私は好きな人とは友達になる主義なんです」といってそれからおつきあいさせていただきましたんです。
芸も笑いもものの見方、分析の仕方、人生の生き方、楽しみ方全部教えて下さいました。

Q上岡さんが芸能界を引退するとき反対したのでは?
僕は立川流の弟子で立川右太衛門という名前を頂いていました。
市川右太衛門の大ファンでしたのでうれしかったんです。
上岡龍太郎は引退したけど立川右太衛門は引退していない」とか言われてね。
僕は談志師匠に教えられたとおり、自分は自分の芸に見切りをつけていましたから何の未練もなく辞められました。

Q長い付き合いで談志さんならではの思い出は

それはいっぱいありまして、珠玉のごとき言葉がある一方で、つまらーんことばまで、いっぱいいただきました。
昭和37年の3月に20歳になったときに「いいか『若きウェルテルの悩み』と太宰治の『人間失格』だけは読んでおけ」と言われまして自分も若い人には同じように言うようにしていたんです。それから30年が経って、談志師匠以前にこんなこと言われましたといったら「そんなこと言ったかおれ」と言われましたけど結局その2冊は「人間の業の深さを知れ」と言っていたと思うんですけど。つまらんこともいいはりましたよ、ようけ。
そごうの上の方にあった喫茶店で「こんなに美しくてまずい物は無いな」ってアイスクリームの上にのったチェリーを食べながら言うてはりました。しょうもないことを。「世の中で一番うまい物はチョコレートだ」とかね。
でもすばらしい人、それこそ映画界における黒澤明、漫画界における手塚治虫、芸術界における岡本太郎なんかと並んで500年経っても生き続ける天才だと思います。
一般の人の中にはひょっとしたらそう評価しない人もいるかも分かりませんが、すごいんです、そら。ものすごい人なんです。幅と奥行きが。
僕なんか談志師匠の広い幅の部分のほんの一部分をお借りして、盗んで、ぱくってそれで生活させてもらったようなものですから、談志師匠の幅のほんの一部だけで僕が生活できたくらいですから本人はもてあましていたんでしょうね。その広さ、持っている才能のあまりの豊かさが自分自身で制御しきれなかったのではないですか、というくらいすごい人でした。僕があの人ならとっくに狂い死にしていると思います。あまりのすごさに。

Q今年のどを切開してと聞くと

ノックさんも咽頭がんでしゃべれない、食べれないと同じような苦しみ。しゃべれないのが一番辛かったと思いますね、でも人よりずっといい思いしたんですから、死ぬときに少し苦しめてやろうと神様が思ったんですかね、だから僕は楽〜に死ねるのと違いますか。
談志さんは亡くなられたと聞いて余計胸の中に生き生きと生きだしまして、僕はずっと人に囲まれて生きてきましたから、ノックさんがいて枝雀さんがいて、談志師匠がいて、トライアングルの中ですごい僕は快適なんですって言ったら談志師匠は「ウソつけ、頂上にいるつもりだろう」って。談志師匠と会わないとものすごく寂しいんですが会うと三日いると疲れるんですよ。一週間いたらたまらんと思いますよ。時々大阪から訪ねて来て会うとものすごく楽しくて刺激を受けて、あの人のおかげがいっぱいありましたね。
すごい人でした。それしかないですね。生きざまも残したものも、芸人に与えた影響も。もし談志師匠がいなければ生まれていないお笑いの人がいっぱいいると思います。
だから今の人たちに与えた影響はものすごいものがあると思うし、これからもいろんな人の中で生き残っていくと思います。
NHKかぶんブログ 2011年12月22日(木)

*1:他省略