人の土俵で褌を取る

気になったニュースの備忘録+α

ニュージーランド地震

ニュージーランド地震は震災被害者に多くの日本人が含まれていたこともあり日本でも一時騒然とし、右脚を切断する重傷を負った富山外国語専門学校1年の奥田建人さんの爽やかな言動が話題にもなった。しかし3月11日の東日本大震災が起こりすっかり忘れ去られてしまった感があるので少し残しておく。

ニュージーランドクライストチャーチ付近で起きた地震で、23日朝、倒壊したキングスエデュケーションのあったビルから救出され、市内のクライストチャーチ病院で治療を受けた富山外国語専門学校奥田建人さん(19)=富山市=は、同日午後、病室で朝日新聞の取材に応じた。上半身はだかのまま、落ち着いた口調で、閉じ込められてから助け出されるまでの様子を次のように語った。
昼食をとっていたら、大きな揺れが来て、いきなり床が落ちた。周りのみんなは「痛い」などと言いながら下に落ちていき、自分は気づいたら真っ暗な中で何かに右足を挟まれて動けなくなっていた。最初は助けが来るかどうかも分からずパニック状態だったが、一緒に埋まった(亀遊〈きゆう〉知子)先生が「落ち着いて」「長期戦になるかもしれないから体力を残そう」と声をかけてくれた。「みんなで生きて帰ろう」と呼びかけ合い、励まし合って救助を待った。挟まれたまま、兄に携帯で電話をし、ここにいることを大使館に連絡してもらった。右足を挟まれて動けなくなり、だんだん足の感覚がなくなっていった。今朝、少しずつ明かりが見えてきて、「命は大丈夫」だと思った。救助されるときに右足を切断したけれど、切るときには「仕方がない」と覚悟をしていた。自分も暗いところにいて、つらかった。みんなも助かってほしい。
朝日新聞 2011年2月23日16時5分

ニュージーランド地震で右脚を切断する重傷を負った富山外国語専門学校1年の奥田建人さん(19)が28日、クライストチャーチ空港から帰国の途に就いた。同日夕、成田に着き、東京都内の病院に入院する予定。奥田さんはクライストチャーチ市内の病院から救急車で空港に移動。医師に付き添われ、車いすで機内に向かった。
奥田さんは地震発生時、語学学校キングズ・エデュケーションが入るビル4階のカフェテリアにいた。ビルの倒壊でがれきの下敷きとなり、約12時間後に救出された。奥田さんはクライストチャーチ市内の病院から救急車で空港に移動。医師に付き添われ、車いすで機内に向かった。
奥田さんは地震発生時、語学学校キングズ・エデュケーションが入るビル4階のカフェテリアにいた。ビルの倒壊でがれきの下敷きとなり、約12時間後に救出された。
nikkansports 2011/02/28

平林さんが生きた証しを後輩に伝えたい NZ地震で死亡

ニュージーランド地震で死亡した、長浜市出身の平林祐子さん=当時(28)=は剣道3段で、留学先で所属した剣道サークルで初心者に熱心に指導していた。剣道を始めた中学時代の恩師で、長浜西中学校教諭草野光晴さん(48)は「望みを持っていたが残念な結果だ…」と目を固く閉じた。 平林さんの出身校、木之本中剣道部は当時、県大会上位常連の強豪校。草野さんが、平林さんを剣道部に誘った。昼休みに廊下を一生懸命掃除する平林さんのひたむきな姿にひかれた。初心者だったが、朝や放課後、地域のクラブでも練習を重ね、2年生で団体戦レギュラーとなり、県大会準優勝を飾った。高校進学後、平林さんから手紙が届いた。剣道部に入り、納得のいく結果を残せない苦しさをつづっていた。「先生は念ずれば花開くと言われましたが、念じても花が開きません」。平林さんの中学卒業時に色紙に書いて贈った言葉だった。  「念じ方が足りないんや」と励ましたという草野さん。平林さんは、贈った言葉通りに成長し、2年生のときは個人戦で3位に入賞した。  平林さんとは卒業後も年賀状をやりとりしていた。一昨年、電話で「仕事はハードですが、元気でやってます」との報告が最後の声となった。地震報道を見て、平林さんに携帯電話をかけたが、声を聞くことはできなかった。
15日、長浜西中の卒業式。静まり返った教室で、担任した3年5組35人へのはなむけの言葉を贈る中、草野さんは平林さんのことを話した。「これからの人生において、いろんなことがあると思う。けれども、常に高い志と目標を持ち、あきらめずに精いっぱい自分の命を輝かせてほしい」。35人には、平林さんに贈った言葉「念ずれば花開く」の色紙も手渡した。「あきらめない姿勢を、祐子さんは示してくれた。彼女の生きた証しを後輩たちの記憶に残してあげることが、私にできることです」。草野さんが胸の内を静かに語った。(浅井弘美)
2011/03/16 00:00【中日新聞

ニュージーランド地震で留学中に犠牲になった長浜市木之本町大音の平林祐子さん(当時28)の告別式が27日、同町内であり、友人や知人ら約700人が参列した。
 祭壇には遺骨と一緒に、笑顔の祐子さんの遺影が掲げられた。弔辞では、木之本中の剣道部で祐子さんを指導した草野光晴さん(48)が「あなたは私の自慢の教え子です。私たちはあなたのことを決して忘れない」と声を詰まらせた。
神戸大でサークルの同期生だった岸田千春さん(28)は「もう会えないなんて信じられません」と涙ながらに遺影に呼びかけた。
 会場には、父親の敏春さん(60)と母親のちづるさん(52)が現地から持ち帰った剣道の防具や大学の卒業論文なども展示され、参列者らの涙を誘っていた。
2011/03/28 asahi.com

http://www45.atwiki.jp/jippensha/?cmd=upload&act=open&page=%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B002&file=35hirabayasi.jpg
(小さくて読めない場合は一旦パソコンに保存してから見てください)
何かこの文章、私に読解力が無いのか意味が通じないところがある。そもそも誰宛にこの手紙を出したのだろう。子供たちは平林祐子さんが亡くなった事を知らずに日本の平林祐子さん宛に送ったのか母親宛に送ったのか。母親に『げんきですか』『またきてね』もおかしな事かも知れないがそういう関係だったかもしれないし、時系列がおかしいのか、それとも手紙の遅配があったのか・・・
多分文章を削ったためこのようの文章になったとして理解しておこう。

2017年12月1日追記

NZ地震 倒壊ビル関係者の立件断念日本人28人犠牲

2011年のニュージーランド地震で、日本人28人を含む115人が死亡したビル倒壊を刑事事件として捜査していた現地警察は30日、検察と協議の上、ビルの設計などに携わった関係者の立件を断念したと発表した。裁判で有罪判決を得るには証拠が十分でないと説明した。
検察は「関係者の過失が犠牲者の死亡を招いたと証明しなければならないが、自然災害のような極端な出来事が絡むと難しい」と明らかにした。地震発生から6年以上、原因究明や捜査が進められたが、日本や地元の遺族らが求めた関係者訴追への道は閉ざされた。
警察は犠牲者の家族や友人が失望することを強く認識していると表明した。立件しないことは既に犠牲者家族に伝えており、家族には今後結論について説明し、質問を受ける方針という。
亡くなった日本人は富山外国語専門学校生の堀田めぐみさん(当時19歳)ら、いずれも語学留学生。地震ではビル倒壊に巻き込まれた115人を含め、計185人が犠牲となった。
捜査の対象となったのは、南島のクライストチャーチ市にあった6階建てのカンタベリーテレビ(CTV)ビル。地震後、20秒以内に各階が垂直に落下する形で崩れ落ちた。倒壊原因を巡っては、独立調査機関として設置された王立委員会が12年に報告書を発表。設計に「重大な欠陥」があったと指摘し、担当者の能力が不足していたと結論付けた。
警察は14年9月、刑事事件として捜査すると発表。100人以上から事情を聴き、設計企業の関係先を捜索し、倒壊の一部の再現実験も行った。昨年8月には倒壊跡地で地盤も調べた。
ただ設計企業の経営者は王立委に対し、欠陥設計の監督責任を認めていなかった。ビル倒壊を巡っては、市による建築許可や建設工事、10年に起きた別の地震後の安全確認など、複数の段階で不手際が判明していたが、警察は設計段階の過失を重点的に調べていた。(共同)
毎日新聞2017年11月30日11時51分(最終更新11月30日12時59分)
https://mainichi.jp/articles/20171130/k00/00e/040/283000c

名古屋・看護師の両親

https://img.atwikiimg.com/www45.atwiki.jp/jippensha/attach/72/7076/82_NZ%E5%9C%B0%E9%9C%87%20%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%96%AD%E5%BF%B5.jpg
2017年12月1日 中日新聞朝刊

無念だろうな。
いや、このことよりも子が自分より先に亡くなったことが。

2018年2月21日追記

https://img.atwikiimg.com/www45.atwiki.jp/jippensha/attach/93/7300/06_NZ%E5%9C%B0%E9%9C%877%E5%B9%B4.jpg
2018年2月18日中日新聞朝刊

カンタベリー地震 (2011年) - Wikipedia

2020年2月21日追記

2020年2月21日 ニュージーランド地震9年 市長が遺族に謝罪 中日新聞
2020年2月21日 中日新聞

クライストチャーチ市 ダルジール市長、遺族に公式謝罪へ NZ地震9年追悼式典
2020年2月23日 中日新聞


2020年2月24日 中日新聞


2020年2月26日 中日新聞


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